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小さな村
ちいさなむら
作品ID4749
著者原 民喜
文字遣い新字旧仮名
底本 「日本の原爆文学1 原民喜」 ほるぷ出版
1983(昭和58)年8月1日
入力者ジェラスガイ
校正者門田裕志
公開 / 更新2002-09-21 / 2014-09-17
長さの目安約 24 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

  夕暮

 青田の上の広い空が次第に光を喪つてゐた。村の入口らしいところで道は三つに岐れ、水の音がしてゐるやうであつた。私たちを乗せた荷馬車は軒とすれすれに一すぢの路へ這入つて行つた。アイスキヤンデーの看板が目についた。溝を走るたつぷりした水があつた。家並は杜切れてはまた続いていつた。国民学校の門が見え、それから村役場の小さな建物があつた。田のなかを貫いて一すぢ続いてゐるらしいこの道は、どこまでつづくのだらうかとおもはれた。荷馬車はのろのろと進んだ。家並が密になつてくると、時々、軒下から荷馬車の方を振返つて、驚愕してゐる顔があつた。路傍で遊んでゐる子供も声をあげて走り寄るのであつた。
 微かにモーターの響のしてゐる或る軒さきに、その荷馬車が停められた時、あたりはもう薄暗かつた。みんなはひどく疲れてゐた。立つて歩けるのは、妹と私ぐらゐであつた。私はその製粉所に這入つて行くと、深井氏に声をかけた。表に出て来た深井氏は吃驚して、それから、すぐにまた奥に引込んだ。いま、荷馬車の上の負傷者をとり囲んで、村の女房たちがてんでに私たちに話しかけた。けれども私は、薄闇のなかに誰が何を云つてくれてゐるのやら、気忙しくてわからないのであつた。深井氏はせつせと世話を焼いてくれた。兼ねて、その製粉所から三軒目の家を、次兄が借りる約束にはなつてゐたのだが、かうして突然、罹災者の姿となつて越して来ようとは、誰も思ひがけぬことであつた。
 やがて、私たちは、ともかく農家の離れの畳の上に、膝を伸した。次兄の一家族と、妹と私と、二昼夜の野宿のあげく、漸く辿りついた場所であつた。とつぷりと日は暮れて、縁側のすぐ向の田を、風が重苦しくうごいてゐた。

  一老人

 背の低いわりに顔は大きい、額は剥げあがつてゐるが、鬢の方には白髪と艶々した髪がまじつてゐる、それから、何より眼だが、そのくるりとした眼球は、とてもいま睡むたさうで、まだ昼寝の夢に浸つてゐるやうだし、ゆるんだ唇にはキセルがあつた。……一瞬、あたりの空気がずりさがつて、こちらまで何だか麻酔にかかりさうであつた。が、そのぼんやりした眼が漸くこちらに気づいたやうであつた。すると、その男の顔には何ともいへぬもの珍しげな表情がうかび、唇がニヤニヤと笑ひだした。
「どうしたのだ、黙つてつつ立つてゐたのでは分らないよ」
 さきほどから、そこの窓口に紙片を差出して転入のことを依頼してゐる私は、ちよつと度胆を抜かれた。
「これお願ひしたいのですが、さうお願ひしてゐるのですが」
 しばらくすると、その男は黙つて、その紙片を机上に展げた。それから、帳面に何か記入したり、判を押したりしだした。反古のやうな紙に禿びたペンで奇妙な文字を記入し、太い指さきで算盤を弾いては乱暴な数字を書込んでゐる。じつと窓口でそれを視入つてゐる私は、何だかあれで大丈夫なのかしらと…

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