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秋深き
あきふかき
作品ID47505
著者織田 作之助
文字遣い新字新仮名
底本 「定本織田作之助全集 第二巻」 文泉堂出版
1976(昭和51)年4月25日
初出「大阪文学」1942(昭和17)年1月号
入力者奥平 敬
校正者小林繁雄
公開 / 更新2008-12-15 / 2014-09-21
長さの目安約 27 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 医者に診せると、やはり肺がわるいと言った。転地した方がよかろうということだった。温泉へ行くことにした。
 汽車の時間を勘ちがいしたらしく、真夜なかに着いた。駅に降り立つと、くろぐろとした山の肌が突然眼の前に迫った。夜更けの音がそのあたりにうずくまっているようだった。妙な時刻に着いたものだと、しょんぼり佇んでいると、カンテラを振りまわしながら眠ったく駅の名をよんでいた駅員が、いきなり私の手から切符をひったくった。
 乗って来た汽車をやり過してから、線路を越え、誰もいない改札口を出た。青いシェードを掛けた電球がひとつ、改札口の棚を暗く照らしていた。薄よごれたなにかのポスターの絵がふと眼にはいり、にわかに夜の更けた感じだった。
 駅をでると、いきなり暗闇につつまれた。
 提灯が物影から飛び出して来た。温泉へ来たのかという意味のことを訊かれたので、そうだと答えると、もういっぺんお辞儀をして、
「お疲れさんで……」
 温泉宿の客引きだった。頭髪が固そうに、胡麻塩である。
 こうして客引きが出迎えているところを見ると、こんな夜更けに着く客もあるわけかとなにかほっとした。それにしても、この客引きのいる宿屋は随分さびれて、今夜もあぶれていたに違いあるまいと思った。あとでこの温泉には宿屋はたった一軒しかないことを知った。
 右肩下りの背中のあとについて、谷ぞいの小径を歩きだした。
 しかし、ものの二十間も行かぬうちに、案内すると見せかけた客引きは、押していた自転車に飛び乗って、
「失礼しやして、お先にやらしていただきやんす。お部屋の用意をしてお待ち申しておりやんすによって、どうぞごゆるりお越し下されやんせッ」
 あっという間に、闇の中へ走りだしてしまった。
 私はことの意外におどろいた。
「あ、ちょっと……。宿はどこですか。どの道を行くんですか。ここ真っ直ぐ行けばいいんですか。宿はすぐ分りますか」
「へえ、へえ、すぐわかりますでやんす。真っ直ぐお出でになって、橋を渡って下されやんしたら、灯が見えますでござりやんす」
 客引きは振り向いて言った。自転車につけた提灯のあかりがはげしく揺れ、そして急に小さくなってしまった。
 暗がりのなかへひとり取り残されて、私はひどく心細くなった。汽車の時間を勘ちがいして、そんな真夜なかに着いたことといい、客引きの腑に落ちかねる振舞いといい、妙に勝手の違う感じがじりじりと来て、頭のなかが痒ゆくなった。夜の底がじーんと沈んで行くようであった。煙草に火をつけながら、歩いた。けむりにむせて咳が出た。立ち止まってその音をしばらくきいていた。また歩きだして、二町ばかり行くと、急に川音が大きくなって、橋のたもとまで来た。そこで道は二つに岐れていた。言われた通り橋を渡って暫らく行くと、宿屋の灯がぽつりと見えた。風がそのあたりを吹いて渡り、遠いながめだった。

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