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飢ゑ
うえ
作品ID4751
著者原 民喜
文字遣い新字旧仮名
底本 「日本の原爆文学1 原民喜」 ほるぷ出版
1983(昭和58)年8月1日
入力者ジェラスガイ
校正者門田裕志
公開 / 更新2002-09-21 / 2014-09-17
長さの目安約 22 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 僕はこの部屋にゐると、まるで囚人のやうな気持にされる。四方の壁も天井もまつ白だし、すりガラスの回転式の小窓の隙間から見える外界も、何か脅威を含んでゐる。絶え間ない飢餓が感覚を鋭くさせるのか、ガラス一重と薄い板壁からなる、この部屋の構造が、外界の湿気や狂気を直接皮膚のやうに吸集するのか、――じつと坐つて考へ込むことは、大概こんなことだ。それにしても、何といふ低い天井で狭い小さな部屋なのだらう。僕の坐つてゐる板敷は、それがそのまま薄い一枚の天井となつてゐるので、ちよつと身動きしても階下の部屋に響く。そして、階下ではちよつとした気配にも耳を澄ませてゐるこの家の細君がゐるのだ。たとへば、僕が厠へ行くため、ドアをあけて細い階段の方へ出たとする。すると、この家の細君は素速く姿を消して次の間に隠れる。僕と顔を逢はすことを避けてゐるのだ。……僕はこの家の細君と口をきくことはまるで無いし、細君の弟が一人ゐるのだが、それとももう言葉を交はさなくなつていた。この家の主人は一月前に社用で何処か遠方へ行つてしまつた。僕はその主人が旅に出かける前、一度一緒に散歩したことがある。そのとき彼は、
「女房の奴、よほど恐つてゐる。俺ともう一ケ月も口をきかない」とぽつんと云つた。
「あ」といふやうな曖昧な頷き方を僕はした。この家にわだかまつてゐる幽暗なものに、それ以上触れるのは何だがおそろしかつたのだ。
 僕はいつもそつとしてゐるのだ。ことりといふ物音一つからでも、このガラスの家は崩壊しさうな気がする。実際ここでは薄い壁とすりガラスの窓と木造の細い窓枠のほか、この家を支へてゐる柱らしいものは無いのだ。地面と同一の高さにある階下の床は歩くたびに釘のとれた床板が跳ね返る。その、だだつ広く天井の高い一階は、壁がはりに張られたガラス全体の枠が物凄く歪んでゐるが、一階から細い階段に眼を向けて二階の方を見上げると、壁の亀裂の線に沿ふやうに二階の部屋が少しずり下つてゐる。僕のゐるあの部屋が墜落する瞬間のことが、どうしても描かれてならないのだ。それは僕があの部屋にゐるとき生じるのだらうか、それとも僕が外に出てゐる留守のときに起るのか……僕にはあの広島の家が崩壊した瞬間のことが、まだどうしても脳裏から離れないのだ。
 壊れものの上にゐるやうに、僕はおづおづとしてゐなければならない。僕はこの家の主人と階下で顔を逢はすことがあつても、お互に罪人同志が話しあふやうな慎重さで、さりげなくお天気のことなど二こと三こととりかはす。僕にはこの家の主人が、やはりいつも壊れものの側にゐるやうに、じつと何かを抑制してゐるやうにおもへてならない。この蓬髪の大男の体全体から放射されるパセチツクな調子は、根限り忍耐を続けてゐるものの情感だ。それは僕の方に流れてくる。……だが、ここでは、少くともこの家の細君の前では、彼と話をすることも遠慮…

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