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曲亭馬琴
きょくていばきん |
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作品ID | 47516 |
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著者 | 邦枝 完二 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「昭和のエンタテインメント50篇(上)」 文春文庫、文芸春秋 1989(平成元)年6月10日 |
入力者 | 大野晋、網迫 |
校正者 | 山本弘子 |
公開 / 更新 | 2008-07-22 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 25 ページ(500字/頁で計算) |
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一
きのう一日、江戸中のあらゆる雑音を掻き消していた近年稀れな大雪が、東叡山の九つの鐘を別れに止んで行った、その明けの日の七草の朝は、風もなく、空はびいどろ鏡のように澄んで、正月とは思われない暖かさが、万年青の鉢の土にまで吸い込まれていた。
戯作者山東庵京伝は、旧臘の中から筆を染め始めた黄表紙「心学早染草」の草稿が、まだ予定の半数も書けないために、扇屋から根引した新妻のお菊と、箱根の湯治場廻りに出かける腹を極めていたにも拘らず、二日が三日、三日が五日と延び延びになって、きょうもまだその目的を達することが出来ない始末。それに、正月といえば必ず吉原にとぐろを巻いている筈の京伝が、幾年振りかで家にいると聞いた善友悪友が、われもわれもと押しかけて来る接待に悩まされ続けては、流石に夜を日に換えて筆を執る根気も尽き果てたのであろう。「松の内ア仕様がねえ」と、お菊にも因果を含めるより外に、何んとする術もなかった。
が、松が取れたきょうとなっては、もはや来るべき友達も来尽してしまった肩脱けから、やがて版元に重ねての催促を受けぬうち、一気呵成に脱稿してしまおうと、七草粥を祝うとそのまゝ、壁に「菊軒」の額を懸けた四畳半の書斎に納まって、今しも硯に水を移したところだった。
「ぬしさん」
障子の外から、まだ廓言葉をそのまゝの、お菊の声が聞えた。
「ほい」
細目に開けた障子の隙間から、顔だけ出したお菊の声は、矢鱈に低かった。
「お人が来いしたよ」
「え」
京伝は、うんざりしたように硯の側へ墨を置いた。
「誰だい。この雪道に御苦労様な。――」
「伺うのは初めてだといいしたが、二十四五の、みすぼらしいお人でありんす」
「どッから来たといった」
「深川とかいいなんした」
「なに、深川。そいつア呆れた。――仕方がねえ。そんな遠方から来たんじゃ、会わねえ訳にもゆくめえ。直ぐに行くから、客間へ通しときな」
「会いなんすか」
「面倒臭えが、いやだともいえめえわな」
それでも京伝は、一行も書き始めないうちでよかった、というような気がしながら、お菊が去ると間もなく、袢纏を羽織に換えて、茶の間兼用になっている客間へ顔を出した。
客間の敷居際には、お菊がいった通り、無精髯を伸した、二十四五の如何にも風采の上がらない骨張った男が、襞切れのした袴を胸高に履いて、つつましやかに控えていた。
「お前さんかね。わたしに用があるといいなさるなア」
京伝の言葉は、如何にもぶっきら棒だった。
「はい、左様でございます。わたくしは、深川仲町裏に住んで居りまする、馬琴と申します若輩でございますが、少々先生にお願いの筋がございまして、無躾ながら、斯様に早朝からお邪魔に伺いました」
「どんな話か知らないが、そこじゃ遠くていけねえ。遠慮はいらないから、もっとこっちへ這入ンなさるがいい」
相手が…