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災厄の日
さいやくのひ
作品ID4753
著者原 民喜
文字遣い旧字旧仮名
底本 「日本の原爆文学1 原民喜」 ほるぷ出版
1983(昭和58)年8月1日
入力者ジェラスガイ
校正者門田裕志
公開 / 更新2002-09-21 / 2014-09-17
長さの目安約 26 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 自分の部屋でもないその部屋を自分の部屋のやうに、古びた襖や朽ちかかつた柱や雨漏のあとをとどめた壁を、自分の心の内部か何かのやうに安らかな気持で僕は眺めてゐる。湿気と樹木の多い日蔭の露路にこの下宿屋の玄関はあつて、暗い階段をのぼつた突当りの六畳が僕の部屋なのだが、焼け残つたこの一角だけは今、焼跡に発生してゐるギラギラの世界に対して、静かに身を躱してゐるやうだ。
 窓の外の建物の向ふにギラギラ燃えてゐた太陽が没して、この部屋の裸電球が古びた襖や柱を照らす頃、僕は漸く人心地がついたやうに古畳の上に横はつたまま、自分の部屋でもないその部屋を自分の部屋か何かのやうに眺めまはしてゐるのだ。これは僕が学生の頃下宿してゐた六畳の部屋に似てゐて、何となしに、この世のはてのやうな孤独の澱みが感じられる。僕は久振りに昔の古巣に戻つたやうな親しみをおぼへる。(古巣へ? ほんたうに僕が戻つて行かれたら!)僕はいま晩年のことを考へてゐるのだ。せめて僕の晩年には身を落着けることのできる一つの部屋が欲しい。この世のすべてから見捨てられてもいいから、誰からも迷惑がられず、足蹴にされたり呪詛されることのない場所で、安らかに息をひきとりたい。そしてその時、自分のしてきた、ささやかな仕事に対して、とにかく、かすかに肯くことができたら、そんなことを考へてゐると僕は何か恍惚とさされる。
 遠方の友よ、君はもうあの家には戻つて来ないのであらうか。君が旅に出掛ける頃、僕たちは同じ軒の下にゐながら、もうお互に打とけて話しあふこともできなかつた。前から僕は君の細君とは口をきくのもひどく怕かつたが、君が旅に出てからは、なほさら、あの家の空気は暗澹としてしまつた。転居の費用とあてさへあれば、僕はもつと早くあそこを飛出してゐただらうに。その家の無言の表示のなかには僕に早く立退いてほしいといふことが、いたるところに読みとれるのだつたが、僕はおどおどしながら窒息するばかりの窮屈な状態をつづけてゐた。
 だが、……ある日、僕は君が阿佐ケ谷の友人にあてた手紙を見せて貰つて、僕は根底から震駭された。さうかなあ、さうだつたのか……さうなつたのなら……もう、かうしてはゐられない、と僕は君の手紙の告白を読んだ瞬間から絶えず呟きつづけてゐたが、その友の家を出て省線の駅まで歩いて来ると、夜が急に深まつてゐた。さうか、さうなのか、と僕は電車の軌道や青いシグナルをじつと眺めてゐた。その冷んやりした夜のレールや電柱は、すべて何ごとも答へてはくれなかつたが、僕には何かの手応へのやうにおもへた。電車は容易にやつて来なかつた。静かな駅の上にかぶさる夜空は大きな吐息に満ちてゐるやうだつた。この夜空のはて、軌道の彼方に、僕のまだ知らない土地で、その遠隔の地で、君は新しい愛人と生活をともにしてゐたのか。さうして、僕がいつもの如くおづおづと帰つて行かう…

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