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火の子供
ひのこども
作品ID4756
著者原 民喜
文字遣い新字旧仮名
底本 「日本の原爆文学1 原民喜」 ほるぷ出版
1983(昭和58)年8月1日
入力者ジェラスガイ
校正者大野晋
公開 / 更新2002-09-22 / 2014-09-17
長さの目安約 22 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

  〈一九四九年 神田〉

 僕は通りがかりに映画館の前の行列を眺めてゐた。水色の清楚なオーバーを着たお嬢さんの後姿が何気なく僕の眼にとまつた。時間を待つてゐる人間の姿といふものは、どうしても侘しいものが附纏ふやうだが、そのお嬢さんの肩のあたりにも何か孤独の光線がふるへてゐた。たつた一人で、これから始る映画を見たところで、どれだけ心があたたまるといふのだらう。幸福さうな、しかし気の毒げな、お嬢さんよ。僕は何気なく心のなかで、そんなことを呟いてゐた。と、その時どうしたはずみか、お嬢さんはこちらを振向いた。その顔は一めん火傷の跡で灰色なのだ。僕は見てしまつたのだ。何故に、そのお嬢さんはたつた一人で映画のなかに夢を求めなければならないかといふ理由を……。

 毎朝、僕はこの部屋で目が覚めるとたん、背筋に真青なものがつつ走る。僕はほんたうに、ここに存在してゐるのだらうか、僕は宙に漾つてゐて、何処かはて知らぬところへ押流されてゐるのではないか。かうした感覚はどこから湧いてくるのだらうか。僕がまた近いうちに、この部屋も立退かねばならぬといふ不安からだらうか。
 僕はあの瞬間、生きてゐた。斃れてはゐなかつた。いきなり暗闇が僕の上に滑り墜ちたので、唸りながらよろめいた。僕はあの時、自分のうめき声をきいた。頭に落ちてくるものは崩れ落ちる破片だつた。だが、僕はもつともつと何かひどいものに叩きつけられたやうな気がした。すべてが瞬時に、とほりすぎた。もの凄い速さが僕のなかで通り過ぎたのだ。あの時から、僕はもう「突然」といふ言葉が奇異に感じられなくなつたし、あの時から僕は地上に放り出された人間だつたのだ。……僕はあの夜のことを憶ひ出す。広島の街は夜もすがら燃えてゐた。僕は川原の堤の窪地に横臥して、人々の号泣をきいてゐた。殆どこれからさき、どうなるのか皆目わけのわからぬ状態のなかに、不思議な静けさがあつた。もはや地球は破滅に瀕してゐて人々は死の寸前に置かれてゐる、さうした不思議な静けさだつたかもしれない。薄暗いなかに負傷者や避難民が一ぱい蹲つてゐた。僕のすぐ側にやつて来て蹲つた男は、どんな男なのか視線ではわからなかつた。だが、声でその人の人柄がわかるやうだつた。「をぢさんについてゐるのだよ。をぢさんについてゐれば大丈夫さ」と男は連れてゐる子供を顧みて頻りに云つてゐた。
「この子は迷ひ子で今朝から私につき歩いてゐるのです」
 僕はその男が皆目わけの分らぬ状態のなかにゐる感動から、迷ひ子を庇つてゐるやうにおもへた。迷ひ子も、それを保護してゐる男も、それから僕も、すべて、かいもく訳のわからぬものに凭掛つてゐたのだらう。だから世界はあの時、消滅しても僕にとつては余り不思議ではなかつた。だが、世界は消滅しなかつた。夜が明けると、僕はまた、まのあたり惨禍のまつただ中にゐるのだつた。僕はあの迷ひ子が…

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