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永遠のみどり
えいえんのみどり
作品ID4757
著者原 民喜
文字遣い新字旧仮名
底本 「日本の原爆文学1 原民喜」 ほるぷ出版
1983(昭和58)年8月1日
入力者ジェラスガイ
校正者大野晋
公開 / 更新2002-09-22 / 2014-09-17
長さの目安約 23 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 梢をふり仰ぐと、嫩葉のふくらみに優しいものがチラつくやうだつた。樹木が、春さきの樹木の姿が、彼をかすかに慰めてゐた。吉祥寺の下宿へ移つてからは、人は稀れにしか訪ねて来なかつた。彼は一週間も十日も殆ど人間と会話をする機会がなかつた。外に出て、煙草を買ふとき、「タバコを下さい」といふ。喫茶店に入つて、「コーヒー」と註文する。日に言葉を発するのは、二ことか三ことであつた。だが、そのかはり、声にならない無数の言葉は、絶えず彼のまはりを渦巻いてゐた。
 水道道路のガード近くの叢に、白い小犬の死骸がころがつてゐた。春さきの陽を受けて安らかにのびのびと睡つてゐるやうな恰好だつた。誰にも知られず誰にも顧みられず、あのやうに静かに死ねるものなら……彼は散歩の途中、いつまでも野晒しになつてゐる小さな死体を、しみじみと眺めるのだつた。これは、彼の記憶に灼きつけられてゐる人間の惨死図とは、まるで違ふ表情なのだ。
「これからさき、これからさき、あの男はどうして生きて行くのだらう」――彼は年少の友人達にそんな噂をされてゐた。それは彼が神田の出版屋の一室を立退くことになつてゐて、行先がまだ決まらず、一切が宙に迷つてゐる頃のことだつた。雑誌がつぶれ、出版社が倒れ、微力な作家が葬られてゆく情勢に、みんな暗澹とした気分だつた。一そのこと靴磨にならうかしら、と、彼は雑沓のなかで腰を据ゑて働いてゐる靴磨の姿を注意して眺めたりした。
「こないだの晩も電車のなかで、FとNと三人で噂したのは、あなたのことです。これからさき、これからさき、どうして一たい生きて行くのでせうか」近くフランスへ留学することに決定してゐるEは、彼を顧みて云つた。その詠嘆的な心細い口調は、黙つて聞いてゐる彼の腸をよぢるやうであつた。彼はとにかく身を置ける一つの部屋が欲しかつた。
 荻窪の知人の世話で借りれる約束になつてゐた部屋を、ある日、彼が確かめに行くと、話は全く喰ひちがつてゐた。茫然として夕ぐれの路を歩いてゐると、ふと、その知人と出逢つた。その足で、彼は一緒に吉祥寺の方の別の心あたりを探してもらつた。そこの部屋を借りることに決めたのは、その晩だつた。
 騒々しい神田の一角から、吉祥寺の下宿の二階に移ると、彼は久振りに自分の書斎へ戻つたやうな気持がした。静かだつた。二階の窓からは竹藪や木立や家屋が、ゆつたりと空間を占めて展望された。ぼんやり机の前に坐つてゐると、彼はそこが妻と死別した家のつづきのやうな気持さへした。五日市街道を歩けば、樹木がしきりに彼の眼についた。楢、欅、木蘭、……あ、これだつたのかしら、久しく恋してゐたものに、めぐりあつたやうに心がふくらむ。……だが、微力な作家の暗澹たる予想は、ここへ移つても少しも変つてはゐなかつた。二年前、彼が広島の土地を売つて得た金が、まだほんの少し手許に残つてゐた。それはこのさき三、四…

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