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あるとき
あるとき
作品ID47577
著者長谷川 時雨
文字遣い旧字旧仮名
底本 「桃」 中央公論社
1939(昭和14)年2月10日
初出「早稻田文學 昭和九年九月號」1934(昭和9)年9月
入力者門田裕志
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2009-01-26 / 2014-09-21
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

むさしのの草に生れし身なればや
  くさの花にぞこころひかるる
 と口ずさんだりしたが、
「わたしの前生はルンペンだつたのかしらん。遠い昔、野の草を宿としてゐて、冷こんで死んだのかもしれない。それでこんなに家のなかにばかりゐるのかしら?」
 門を一足出て、外の風にあたると、一町も千里もおんなじだと氣が輕くなつてしまふのにと、いふと、出おつくうがる性なのを知つてゐるものは手を叩いて笑つた。
 今朝ふと、雨上りの草の庭を眺めてゐて、海をおもつた。それも涯しないひろい大洋が戀しくなつたのだ。
 昨日のはなしの折にも、私は毎年繰返していつてゐる、秋には山へいつて、山の風に吹かれてくるのだと、今年も出來ない相談であらうことを樂しく語りながら、高原に立つて秋草を吹き靡かす初秋の風に身をまかせて、佇んでゐる自分を描き、風の香をなつかしんでゐたのだ。足を勞さないで、居ながらに風景を貪る癖からなのか、それとも、空ばかり眺めくらしてゐた太古の、前生人からの遺傳か、それこそ一足から千里も飛ぶやうな空想が、私にはなかなか役にたつ遺産で、私の心を、役の行者のやうに、雲にして飛ばしてくれる。
 しかし洋の原が戀しくなつたのは、高原の風が辷りこむやうに、空想が海を走つたばかりではなかつた。私の二人の古い友達が、海のあなたに渡つて、長く歸らないことが、堪らなくさびしくなつたのだつた。
「此間あなたに小つぴどく怒られた夢を見た。いつか長い手紙を頂いて、毎日毎日友達は嬉しいなと思ひながら、手紙を書かう/\と思ひつつ段々のびたのと、あれから久しくたつて、やうかんがついたといふので、遠いとこまで足を運んだのでしたが、一度は代人でパスポートがなくてダメ、二度目は休み時間、三度目はとう/\間に合はず羊羮は洋行して歸つてしまつたので、追かけもならず、御心入れをとう/\ムダにしてしまひ、何とも申譯もないと思つてた時の夢だつたのです。元氣でゐて下さい。パリになんかベンベンとしてゐると、だんだん馬鹿になることがわかつてゐるけれど、おいそれとは歸られずに居ます。どうぞ病氣はしないで下さい。やせて返事が消えては大變だから待つてて下さい。
正宗さんの何か集があつたら送つてください。たのみます、なるべく早く。
これはパリ・オペラ夜景。どつしりしてますが、もう汚れて鼠色です。岡田八千代」
 とした七月二日出の繪はがきは、シベリア經由なのにまる一ヶ月もたつて、二月十日に出して七月末の日に返送された「虎や」の羊羮の小包と前後して私の手に渡つた。
 なんで、私が怒つた夢なんぞ見たのだ。悲しがつてゐる夢を見て、早く歸りたい氣持ちになつてくれればよいにと、さびしかつた心が、海を行く空想を逞しくさせたのだつた。
 ――かう降りつづいては、汽船の室でも垂れこめて――
 土用のうちの霖雨を、微恙の蚊帳のなかから眺め、泥濁つた渤海あたり…

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