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大正東京錦絵
たいしょうとうきょうにしきえ |
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作品ID | 47598 |
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著者 | 正岡 容 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「東京恋慕帖」 ちくま学芸文庫、筑摩書房 2004(平成16)年10月10日 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | 酒井和郎 |
公開 / 更新 | 2016-03-07 / 2015-12-24 |
長さの目安 | 約 59 ページ(500字/頁で計算) |
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「カチューシャ」前後
木下杢太郎氏が名詩集『食後の唄』の中の「薄荷酒」と云ふ詩の序の一節を、ちよつと読んで見て呉れないか。
「その頃聴いたのは松声会でなくて、哥沢温習会の方であつた。芝とし、芝みねなどと云ふ美声の老女もまだ微かに覚えてゐる。(中略)かかる会には美しい聴衆も多くて、飛白の羽織に小倉の袴を穿つた身の風情を恥かしいと思ふこころもあつた。やや年とつた男の人々のうちには、川柳の回覧雑誌のことを話しあうてゐるのもあつた。」(下略)ヽヽは勿論私が施したものであるが、この杢太郎氏の随筆は大正五年一月に執筆されたもので、尚この文章をおしまひまで読んでゆくと、同氏が哥沢温習会へゆき、「川柳の回覧雑誌のことを話しあうてゐる」を見たのは大正元年あたりのことらしい。
爾来数年、川柳はいよ/\市井文学として一杯に開花し、結実し、「回覧雑誌」は同人雑誌と、やがてある種のものは一般雑誌の一歩手前位まで発展していつたと見ていい。
いまその大正時代の川柳句集を翻いて見ると、流石にや活動写真の連続物、オペラ・カフエー・バー・労働問題等等、さうした大正ならではの風趣風景が、じつに続々と面白可笑しく擡頭して来る。
大正期の川柳殊に久良伎翁、剣花坊翁の作品は、大正期に入つて最頂点を劃してゐると云つてよく、就中伎翁には本格の時代味感溢るる佳吟が少くない。
桃山の方へ人魂二つ飛び
久良伎
云ふ迄もなく大正改元、御大葬当夜、乃木将軍夫妻の殉死である。翁が、将軍夫妻殉死の報を耳にされるや、直ちに「人魂二つ」を聯想されたところに、いかにも江戸つ子詩人ならではの詩情がある。「人魂」と云ふもの、江戸浮世絵や草双紙の挿絵への教養深からざる限り、決して親近を感じるものではないからである。
カチューシャの合唱神楽坂を行く
久良伎
人形の家で 媒人 度々弱り
同
佐藤義亮氏の『新潮社四十年』を読むと、島村抱月が松井須磨子と芸術座を創立して、帝劇に初公演したのは大正三年だとある。そのときの費用千円は佐藤氏から提供され、戯曲「復活」は新潮社から出版された。
「帝劇の「復活」は破れるやうな喝采であつた。抱月氏も嬉しかつたらうが、私としてもこの上ない喜びであつた。やがて「芸術座」は「復活」を持つて上野の万国博覧会にも出演したり浅草で特別興行したりして、須磨子の歌つた「カチューシャの唄」カチューシャ可愛や別れのつらさ――は、一世を風靡して、我が国流行歌史上に一大エポックを劃するに至つた」
と佐藤氏は手記されてゐる。
イプセンの「人形の家」のノラが、我が国の舞台に華やかな脚光を浴びて登場したのも、此に前後してだつたとおもふ。(いま手許に適当の新劇史がないので適確の年代が云へないが)さうして新しくノラによつて目醒めさせられた日本の若い夫人たちが、幾百人か幾千人かその「人形の家」を振り棄てようとした。
浮世…