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寄席
よせ
作品ID47599
著者正岡 容
文字遣い新字新仮名
底本 「圓太郎馬車 正岡容寄席小説集」 河出文庫、河出書房新社
2007(平成19)年8月20日
入力者門田裕志
校正者酒井和郎
公開 / 更新2016-06-06 / 2016-03-04
長さの目安約 218 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

第一部 お高祖頭巾の月





稽古



「今つけてやる」
 そう言ったきり、フイと師匠の雷門助六は、立っていってしまった。もうそれから二時間近くが経っていた。キチンと座ったまま両方の足の親指と親指とを重ね合い、その上へ軽く落とした自分のお尻がはじめ小さな風呂敷包みを膝の上へ載せたほどに、だんだんギッチリと詰まった信玄袋の重さに、しまいにはまるで大きな沢庵石でも載せられたかのようになってきていた。
「…………」
 いかにも江戸っ子らしい嫌味のない面長の顔全体をしかめて、お弟子の古今亭今松はジッとジーッと耐えていた。
 でも最前までは算盤責めの拷問かとなんとも言えない烈しい痛みだった腰から下が、もう今ではなんの感覚もなくなってしまっていた。
 押しても、突いても痛くなかった。
 恐らく大身の槍をプスリ通されたとて、なんの痛みももうあるまい。
 肉全体が痺れてしまって、もう完全なバカみたいになりきっていた。
 落語家なればこそ、この長い長い時間を、たとえ痛もうが痺れようが、ジッと耐えて座り通していられるのだ。そこらの牛屋で、東雲のストライキを怒鳴りちらして、女義太夫の尻でも追っ駆け廻している書生さんたちには、頼まれてもこの辛抱はできまい。
 自分で自分に感心しながら今松は、この間の晩の大雪がまだ消え残っている、枯れ松葉をいっぱい敷きつめた小意気な庭先の手水鉢へ、ふッと目をやった。ベットリ青苔の生えている手水鉢の水の真ん中へ、一月の午後のおてんとさまが薄白い顔を小さく浮かせ、どこかの猫が背伸びするように後脚だけで立って、音立ててその水を飲んでいる。
 …………飴屋の唐人笛が聞こえる。
 下谷も入谷田圃に近い、もとなんとかいう吉原の大籬の寮の跡だという、冷たくだだッ広いこの家は、明治三十八年の東京市中とは思われないほど、ものしずかだった。ましてや日露の大戦争が、あの巨大国を向こうに廻して未曾有の大勝利を占めとおし、全日本をあげて万歳また万歳の連呼に夜も日も足らない今日この頃であろうとは。
「叱、叱……畜生」
 退屈まぎれに今松は猫を追ってみた。水を飲むのをやめて真っ白な大猫はチロッとこっちを見るようにしたが、そのままふてくされたようにノソリノソリ枯松葉を踏んで、突き当たりの椎の木の下の石燈籠の陰へ姿を隠してしまった。薄白い雪の上へ、煤色に小さな足跡が残された。
 それにしてもこの間の大雪の晩は――。
 今松はさっきとは別にキリリとした眉をしかめた。
 ひどいのなんのってあんなことってあるだろうか。
 去年の暮れの下席、千住の天王前の寄席だった。
 ところが場末も大場末の千住の寄席のうえに、上野の公園の桜の枝なんか何本折れたかわからない、何十年来の大雪。
 まるで芸人さんがやってきてくれなかった。
 六人の無断休演があって、七回も高座へ穴があいてしまった。
 前…

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