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滝野川貧寒
たきのがわひんかん
作品ID47602
著者正岡 容
文字遣い新字旧仮名
底本 「東京恋慕帖」 ちくま学芸文庫、筑摩書房
2004(平成16)年10月10日
入力者門田裕志
校正者酒井和郎
公開 / 更新2016-06-18 / 2016-03-04
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 私は半生をつうじての貧困の生活を、昭和初世の滝野川と杉並馬橋とでおくつた。場末の洋食店に女給をしてゐた、醜貌の上に無教養至極だつた女との腐れ縁の生活が絶えようとしてはまた続き、常に順環小数のやうな別れ話の繰返しに漸く私の生活は精神物質共に日に/\不如意とはなつて行く許りであつた。その上はじめ西ヶ原の雪中庵ちかくの西洋洗濯店の二階借りをしてゐたのがやがて近傍の陋巷に佗びしい長屋の一軒をみつけて移り住んだとき、関東節薄倖酒乱の天才小金井太郎の一家が何と落魄最中の私をたよつて寄食して来た。さらぬだに不如意であつた私の生活には当然それが二段三段の拍車を掛け、つひには収拾す可からざる状態にまで陥つてしまつたので、その年の歳晩、たうとう私は居候の太郎一家を置去りにして夜逃げをしてしまつた。流寓逃亡の記憶は、それが二十代のことでもあり、今日しづかに考へて見れば却つて尊い人生読本の一頁とも感じられてさら/\悲哀とはおもはないが、この不遇なりし生活のため、愛蔵の盲小せんの「ハイカラ」、故円右の「五人廻し」その他貴重の故人吹込のレコードを入質したまゝながしてしまひ、悠久に再入手の機を得ないことは返す/″\も遺憾に耐へない。この間の悲喜劇に付いては未発表の小説「青北風」に詳述したから、重ねて談らうとはおもはない。
 でも、かうした貧寒困窮の生活の中で尚且私は左の荷風先生模倣の身辺小記などを某々誌へと発表してゐた。元より私の手許からは夙に散逸してしまつたものを、先生小針正治君からおくられたのである。抄して見よう。

 北豊島、滝野川なる西ヶ原のほとり、さゝやかなる二階借りせしは、昭和五年もいとおしつまれるころなりき。歳晩にはありがちの、春のごと暖き午後を、はる/″\湘南の地より移り住みこゝに世を忍ぶ身とはなりぬ。
 北豊島の郡といへば、何となう『江戸名所図会』などみる心地して昔めかしく、寒梅、寒菊、福寿草その他春待つ花樹をひさぐ植木屋のいと多きも、寂しきこのごろの我がこゝろには、いたく和みぬ、されば一日そが果樹園に杖ひくうち、葉柊に似て異国めき、名はわからねど植木屋もたゞ「西洋の、おめでたき草……」とのみよべる珍草あり、さして風情はあらざりしが、奇しきまゝ求め来り、綺堂、岡本先生に贈り参らせたり。

       ×

 雪また雪――このごろ、いたく雪多し。さんぬる十日の大雪の夜は、浪花節の木村某、はなしかの柳家なにがしらとお成道なる祇園演芸場へ出演せしが席への途次今年の干支なる羊或は雪達磨の形せる狸に破れ傘あしらひたるなど、いと巨いなる雪人形をみいでたり。
 予が、少年の日は雪いたく降り、東京街々、見上ぐる許りの雪だるま作らへられしこと屡々なりしが近年にては稀のことなり。わけて、上野の広小路なる前述の雪の狸など亡祖母よりしば/\聴かされし、江戸末年の大雪に、新川なる酒蔵に丈余を…

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