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作品ID | 47608 |
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著者 | 長谷川 時雨 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「桃」 中央公論社 1939(昭和14)年2月10日 |
初出 | 「大阪毎日新聞」1934(昭和9)年12月 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | 仙酔ゑびす |
公開 / 更新 | 2009-02-20 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 4 ページ(500字/頁で計算) |
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秋雨のうすく降る夕方だつた。格子戸の鈴が、妙な音に、つぶれて響いてゐるので、私はペンをおいて立つた。
臺所では、お米を磨いでゐる女中が、はやり唄をうたつて夢中だ。湯殿では、ザアザア水音をさせて、箒をつかひながら、これも元氣な聲で、まけずに郷土の唄をうたつてゐる。私は細目に、玄關の障子をあけてみた。
「冬子は見えてをりませうか?」
洋服で、骨の折れた傘を、半開きに、かしげてゐた。
「戸澤ですが――」
と、中年の、小柄な男は、小腰をかがめて上眼づかひにいつた。
「冬子が、あがつてゐないとすると、大變なことになりました」
私は格子をあけて、その人を迎へ入れなければならなかつた。
「大變なことと、おつしやると――」
「あれは、死んでゐます」
これは變だと、さう聞いた刹那に思つた。だが、その人は、眞劍で、青白い顏に、オドオドした大きな眼が、うつろで、まぶちの赤いのが目立つてゐた。
「時間からいふと、今ごろは――」
彼は唇を噛むやうにしてうつむいた。立つたままでも聞いてゐられないので、あがつてもらふと、彼はいひつづけた。
「つまらないことで別れてゐて、けふ歸つて見ると、家の中の樣子が變つてゐるのです」
「變つてゐるといふと?」
「彼女は、もう、二度と、あの家へは歸らないつもりなのです。僕は――」
と、顏を赤くしてどもつたが、
「あの女なしには、實際、今、ゐられないのですが――」
伏せた眼はうるましてゐる。別段、書置きも何もないが、壁にかけてあつた彼女の古い雨外套のカクシを探ると、ある男へやる、打合せの手紙の書きかけが丸めて入れてあつて、それを讀み解くと、冬子は、けふの丁度いまごろの時間に、函館海峽で、投身自殺をしてゐるのだ。
「僕が惡いのです。僕が、彼女を苦しめるものだから――だが、僕は堪らないのです。冬子が選んだ相手が、ニヒリストの、あの詩人であるなら、まだ耐へることが出來るが、僕の――僕の先輩、日本でたつた一人の先覺者、アナキズムの、大學者の×氏を、僕があるために、空しく海峽の藻屑としてしまふのは忍びない、そのくらゐならば、僕が死んであげる――」
その人は歔欷したが、私は吃驚した。
「心中なのですか?」
ときくと、冬子の夫はコツクリした。
「誰と?」
「それが、わからないから、堪らんのです。ニヒリスト詩人なんぞなら、彼一人死ぬがいいのです。だが、×氏なら惜しい、實に、實に惜しい、死なせたくないのだ。」
彼はいふ。冬子とニヒリスト詩人とが、お互に變名して、手紙を託しあつてゐる古本屋へ、ニヒリスト詩人が、きのふの朝か、をととひ、冬子の手紙をとりに來たか、または冬子に手紙を渡したか、それを電話で、こちらから問合せてくれれば、けふ、函館海峽で命を落したのは、冬子と誰とだかがわかるのだと。
これは困つたことだと、私は思つた。どんな氣持で、冬子がそんな…