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或売笑婦の話
あるばいしょうふのはなし
作品ID4762
著者徳田 秋声
文字遣い新字旧仮名
底本 「現代文学大系 11 徳田秋聲集」 筑摩書房
1965(昭和40)年5月10日
初出「中央公論」1920(大正9)年4月
入力者高柳典子
校正者土屋隆
公開 / 更新2006-03-14 / 2016-02-03
長さの目安約 22 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 この話を残して行つた男は、今どこにゐるか行方もしれない。しる必要もない。彼は正直な職人であつたが、成績の好い上等兵として兵営生活から解放されて後、町の料理屋から、或は遊廓から時に附馬を引いて来たりした。これは早朝、そんな場合の金を少しばかり持つて行つた或日の晩、縁日の植木などをもつて来て、勝手の方で東京の職人らしい感傷的な気分で話した一売笑婦の身の上である。

 その頃その女は、すつかり年期を勤めあげて、どこへ行かうと自由の体であつたが、田舎の家は母がちがふのに、父がもうゐなくなつてゐたし、多くの客の中でどこへ落着かうといふ当もなかつたので……勿論西の方の産れで、可也な締りやであつたから、倉敷を出して質屋へあづけてある衣類なども少くなかつたし、今少し稼ぎためようと云ふ気もあつたので、楼主と特別の約束で、いつも二三枚目どころで相変らず気に向いたやうな客を取つてゐた。
 その客のなかに、或私立大学の学生が一人あつた。彼は揉みあげを短く刈つて、女の羨しがるほどの、癖のない、たつぷりした長い髪を、いつも油で後ろへ撫であげ、いかに田舎の家がゆつたりした財産家で、また如何に母親が深い慈愛を彼にもつてゐるかと云ふことを語つてゐるやうな、贅沢でも華美でもないが、どこか奥ゆかしい風をしてゐた。勿論年は彼女より一つ二つ少いと云ふに過ぎなかつたが、各階級の数限りない男に接して来た彼女の目から見れば、それはいかにも乳くさい、坊つちやん/\した幼ない青年に過ぎなかつた。
 初めて来たのは、花時分であつた。どこか花見の帰りにでも気粉れに舞込んだものらしく、二人ばかりの友達と一緒に上つて来たのであつたが、三人とも浅草で飲んで来たとかいつて、いくらか酒の気を帯びてゐた。彼等は彼女の朋輩の一人の部屋へ入れられて、そこで新造たちを相手に酒を飲んでゐたが、彼女自身はちよつと袿を着て姿を見せただけで……勿論どんな客だかといふことは、長いあひだ場数を踏んで来た彼女にも、淡い不安な興味で、別にこてこて白粉を塗るやうなこともする必要がなかつたし、その時は少し病気をしたあとで、我儘の利く古くからの馴染客のほかはしばらく客も取らなかつたし、初会の客に出るのはちよつと面倒くさいといふ気もしてゐたので、気心を呑込んでゐる新造にさう言はれて、気のおけないやうなお客なら出てもいゝと思つて、袖口の切れたやうな長襦袢に古いお召の部屋着をきてゐたその上に袿を無造作に引つかけて、その部屋へ顔を出して行つたのであつたが、鳩のやうな其の目はよくその男のうへに働いた。
「ちよい/\こんな処へ来るの。」
「いや、僕は初めてだ。」
「お前さんなんかの、余り度々来るところぢやありませんよ。」
 彼女はその男が部屋へ退けてから、自分で勘定を払はせられて、素直に紙入から金を出してやるのを、新造に取次いだあとで、そんなことを言つて笑つてゐ…

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