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花が咲く
はながさく |
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作品ID | 4763 |
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著者 | 徳田 秋声 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「現代文学大系 11 徳田秋声集」 筑摩書房 1965(昭和40)年5月10日 |
初出 | 「改造」1924(大正13)年4月 |
入力者 | 高柳典子 |
校正者 | 土屋隆 |
公開 / 更新 | 2007-06-11 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 13 ページ(500字/頁で計算) |
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磯村は朝おきると、荒れた庭をぶら/\歩いて、すぐ机の前へ来て坐つた。
庭には白木蓮が一杯に咲いてゐた。空からの白さで明るく透けてゐるやうに思へた。花の咲く時分になつてから、陽気が又後戻りして来て、咲きさうにしてゐた花を暫し躊躇させてゐたが、一両日の生温い暖かさで、それが一時に咲きそろつた。そしてその下の方に茂つてゐる大株の山吹が、二分どほり透明な黄色い莟を綻ばせて、何となし晩春らしい気分をさへ醸してゐた。何かしら例年の陽気に見られない、寒さと暑さの混り合つたやうな重苦しい感じがそこに淀んでゐるやうな日であつた。それは全くいつもの春には見られないやうな、妙に拍子ぬけのした気分であつた。
彼は何だか勝手がちがつたやうな気がしてゐたが、それは彼の神経の弱々しさも一つの原因であつたが、余り自然に興味をもちすぎる彼の習慣から来てゐるものだとも思はれた。其のうへ彼は又この二三日、ひどく煩はしいことが彼の頭に蔽被さつてゐることを不快に思つた。
それは磯村のやうに、家庭に多勢の子供をもつてゐると同時に、社会的にも少しは地位をもつてゐるものに取つては、可也皮肉な出来事であつたからで、気の小さい、極り悪がり屋の彼は、何うかして甘くそれを切りぬけようと、頭脳を悩ましてゐた。
「あの女がまた来ましたよ。」
磯村が何か深い心配事があるやうな調子で、さう言つて、妻に脅かされたのは、三日ばかり前の夜のことであつた。
その夜彼は会があつて、帰りが思ひの外遅くなつた。おしやべりをしたり、酒を飲んだりしたので、彼はひどく疲れてゐたが、妻にさう云はれると、又かと思つて少しは胸がどきりとなつた。
勿論その女のことは人に頼んで間へ入つてもらつて、去年の冬とにかく一段落ついた形になつてゐたが、しかし相手が執念く出れば、彼はいつまでたつても安心する訳には行かないのであつた。
「また来たつて。」磯村は軽く問ひ返した。彼女の神経が尖つてゐるやうに思へて、それに触るのが辛かつた。
今となつては、それは単に彼一人の苦労ではないことは判つてゐた。寧ろ彼女の方が、余計気にしてゐるくらゐであつた。磯村に取つては、思ひがけない災難のやうなものであつた。十年ぶりで、その女から手紙を受取つたとき、彼はそれ以来その女が何うして暮してゐたかを知りたいだけの興味で、多分いく分か生活が明るみへ出てゐるだらうと想像したところから、どこかでちよつと飯でも一緒に食べて話を聞かうと思つたに過ぎなかつたが、それが不運な彼のために用意された陥穽であつた。彼女を一目見たときから、彼はまざ/\幻滅を感じた。嫌悪の情がむら/\起つたが、彼女の話はやつぱり聞きたかつた。そして彼は三度まで彼女を訪問した。彼女の話すところでは、最近まで或る工場持の保護を受けてゐたけれど、財界の恐慌でその関係は絶たなければならなかつた。で、すつかり行詰つて…