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風呂桶
ふろおけ
作品ID4764
著者徳田 秋声
文字遣い新字旧仮名
底本 「現代文学大系 11 徳田秋声集」 筑摩書房
1965(昭和40)年5月10日
初出「改造」1924(大正13)年8月
入力者高柳典子
校正者土屋隆
公開 / 更新2007-06-08 / 2014-09-21
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 津島はこの頃何を見ても、長くもない自分の生命を測る尺度のやうな気がしてならないのであつた。好きな草花を見ても、来年の今頃にならないと、同じやうな花が咲かないのだと思ふと、それを待つ心持が寂しかつた。一年に一度しかない、旬のきまつてゐる筍だとか、松茸だとか、さう云ふものを食べても、同じ意味で何となく心細く思ふのであつた。不断散歩しつけてゐる通りの路傍樹の幹の、めきめき太つたのを見ると、移植された時からもう十年たらずの歳月のたつてゐることが、またそれだけ自分の生命を追詰めて来てゐるのだと思はれて、好い気持はしないのであつた。しかし津島のやうな年になると、死に面してゐる肺病患者が、通例死の観念と反対の側に結構脱れてゐられると同じやうに、比較的年の観念から離れがちな日が過せるのであつた。闇雲に先きを急ぐやうな若い時の焦躁が、古いバネのやうに弛んで、感じが稀薄になるからでもあるが、一つは生命の連続である子供達の生長を悦ぶ心と、哀れむ心が、自分の憂ひを容赦してくれてゐるのであつた。
 その朝津島は一人の来客と無駄話をしてゐた。そんな時に彼は、それが特別な興味を惹くとか、親しみを感ずるとかいふ場合でない限り、気分が苛々して来るのであつた。いつもさう感じもしない時間の尊いことを、特別に思ひだしでもしたやうに、取返しのつかない損をしてゐるやうに感じて、苛々するのであつたが、しかし其の人が遠慮して帰りさうにすると、思ひ切りわるく引止めたくもなるのであつた。津島は其の時ふと、妙なことが気になつた。それは其の来客と何の係りもないことだが、それが気になり出すと、もう落着いて応答してゐられないのであつた。彼は浮の空で話のばつだけを合してゐた。それは板塀一つ隔てた、津島の書斎から言へば、前の方にあたる一つの家の台所で、ちやうど其の時やつて来た大工に何か指図をしてゐる妻のさく子の声が、妙に彼の神経を刺戟したのであつた。
 津島はその頃、やつとその家を明けてもらふことが出来て、いくらか助かつたやうな気がしてゐた。彼は年々自分の住居の狭苦しいのを感じてゐた。勿論十人の家族に、畳敷でいへばわづか二十畳か二十四五畳の手狭な家なので、何うにも遣繰のつかないことは、女達に言はれなくとも、今まで住居などには全く何の注意をも払はなかつた、又た払ふ余裕もなかつた津島自身が痛感してゐるのであつた。この二三年、子供達がめき/\生長するにつれて、その問題は一層切迫して来た。
 津島はその頃長らく住んでゐた自宅と、土地の都合でそれに附属してゐる、今一つの家とを、思ひがけなく自分のものにすることができた。彼はさうする前に、自分の家が新らしい家主に渡りかけたところで、明け渡しを迫られたが、借家の払底なをりだつたので、家が容易に見つからなかつた。彼は多勢の子供をひかへて家を追立てられる悲哀と、借家を捜す困難とを、その時…

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