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夏の夜
なつのよ
作品ID47642
著者長谷川 時雨
文字遣い旧字旧仮名
底本 「桃」 中央公論社
1939(昭和14)年2月10日
初出「東京日日新聞」1937(昭和12)年8月11日
入力者門田裕志
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2009-03-03 / 2014-09-21
長さの目安約 10 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

     暗い窓から

 地球が吸ひよせる雨――そんなふうな降りだ。
 六十年ぶりだといふ暑熱に、苦しみ通した街は、更けてからの雷雨に、なにもかもがぐつすりと濡れて、知らずに眠つてゐる人も快げだ。
 叩きつける雨の勢ひは、遮るものにあたつて彈きかへされ、白い霧になつてゐる。木の葉は――青桐の廣葉は、獅子がたてがみをふつてゐるやうに、葉を立てて、バリバリと、貪焚に、雨にぶつかつてゐる。
 私は、硝子窓を細く細くあけ、口をあけて繁吹きと一緒に涼氣を吸ひ込んだ。十分にといひたいが、長くはあけてゐられないのは次の間に病む人がゐる。
 私が、肘かけ窓の柱に凭れて、一人所在なく起きてゐる二階は、細い、長い袋小路の中ごろで、丁字路の一方の角の家なのだが、袋町といふ名の通り、この角で行止りに見えるほど、行儀わるくくひちがひになつてゐる。その出つぱつた角の、小はづかしいほどあからさまな家なのだ。
 小ブルヂヨア町なのに、その、くひちがひの一角だけが謙遜な平家建ばかりで、斜向ひの角家は、表側に引窓をもつやうな舊式な長屋だ。それを見くだすやうに、こんくりーとの石段を入口に三段ばかりもつて、何處もかもガラス戸で、安普請のくせに傲然と他の二角を見下してゐる、現代式の貸家だつた。
 夜の看護にあたる私は、明けやすい夜を、ただ、まじまじとして幾日か過ぎてゐた。カーテンの透きから、時折外氣を求めはしたが、露じめりもない乾ききつた夜ばかりつづいてゐたのだつた。
 ――何時の間にか、雨はあがつた。青い光が硝子戸ごしにカーテンに明暗する。濕氣が病人にあたらない方の小窓へいつて見ると、一氣に夏が押流されてしまつたやうな高い空に、眞新しい月が出てゐて、月の面前を、薄墨雲が、荒々しいほどドンドン走りすぎてゆくのだ。
 もうやがて、いつもならば、寢苦しがる家の戸が繰りあけられるに近い時刻なのだが、しつぽりと世間は寢しづまつてゐる。曉方になると、せまい家の中から、寢間着のまま出て來ては、電柱に恁りかかつて、うつらうつら眠る角の平家の少女も、蚊帳のなかに手足を伸ばしてゐるのだらう。
 空を見てゐる私も、頭はハツキリしてゐるのに、體がぐつたりしてしまつた。適當に病室の空氣を入れかへて、さつぱりして柱にもたれると、氣が遠くなつてゆくやうだつた。
 とろとろしたのだらう。私はハツと驚いた。
 ――忘れちやいやよ――
 と、ばかに元氣な蠻聲に耳を打たれた。窓の下からだ。吃驚りしてカーテンの下から覗くと、トラツクから肥桶を積みおろしてゐる紫紺の海水着を一着におよんだ、飴色セルロイドぶちの、ロイド眼鏡をかけた近郊の兄ちやんが、いまや颯爽と肥桶運搬トラツクに跳び乘り、はんどるを握つて、も一度
「わ、すう、れえ、ちやあ、いやあ、よ――」
 と、奇聲をあげる瞬間だつた。流行歌謠だつたのだ。

 不思議なことに、このくひちがひ…

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