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花火と大川端
はなびとおおかわばた
作品ID47654
著者長谷川 時雨
文字遣い旧字旧仮名
底本 「桃」 中央公論社
1939(昭和14)年2月10日
初出「改造」1934(昭和9)年7月
入力者門田裕志
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2009-03-03 / 2014-09-21
長さの目安約 17 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 花火といふ遊びは、金を飛散させてしまふところに多分の快味があるのだから、經濟の豐なほど豪宕壯觀なわけだ。私といふ子供がはじめて記憶した兩國川開きの花火は、明治二十年位のことだから、廣告花火もあつたではあらうが、資本力の充實した今日から見れば、三業組合――花柳界の支出費だけで、大仕掛のものはすくなかつた。
 江戸時代の川開きとは、納凉船が集つてくる、五月廿八日から八月廿八日までをいつたものだといふが、納凉舟から打上げた花火の競ひが、一夕、日をさだめて盛んに催されるやうになつたものと思へる。客寄せに岸の割烹店が行なつたよりは、富む者たちが打上げさせた方が、金力が豐だつたことはいふまでもない。
一兩が花火間もなき光かな
この人數船なればこそ凉かな
 と俳人寶井其角は元祿四年にその盛況をよみ殘しておいてくれてゐる。その當時の物價と金の價格を引きくらべたら、一兩はいまのいくらになるか知らないが、其角ほどの人がさう讀んだのは、一兩がかなり高價であつたと見ることが出來る。
 江東一帶は工業地區となり、隅田川は機械油を流しうかべる現今こそ、金の集散は著しいであらうが、昔の大川筋に、物資の力と花火の發達なぞといふのはをかしいやうだが、武藏と下總の國境を、渡し舟が人を運んだ人煙稀薄な大昔はとにかくとして、あれだけの橋が幾筋も出來上るには、かけなければならない交通と、物資のふくらみとがあつたわけだ。大川が大都會を貫く水路になつて、江戸の文明と密接な關係をもつてくると、有名な淺草海苔も、もうその時分から産物ではない。
 隅田川本流大川に橋のかかつたのは、萬治三年の兩國橋――最初は大橋、または二洲橋――と名附けられ、對岸の深川、本所は(もとの名、永代島、牛島)とうに御府内に抱へこまれてゐて、橋こそなかつたが、芦や葭の生へた洲ばかりだと思ふと大違ひの賑はしいところであつたのだ。
 橋のかかつた原因は、三年前の、明暦三年正月、本郷丸山からの大火事に、淺草見附の廣場に家財道具を持出したものが積み重なり、逃げ道をふさいで、十萬七千人といふおびただしい燒死者があつたから、時の政府が急に造橋を思立つたのだつた。次の大火事に構へるところに、いかに江戸に大火がつきものだつたかといふことがわかり、しかもその翌年正月、駒込吉祥寺に大火があり、年をつづけて千代田城も燒亡してゐる。この年の大火難と、大正拾貳年の關東大震災とは、橋をへだて世をへだてて、兩岸に偶然なおなじ出來ごとがあつたのだつた。震災のは本所横網に紀念堂が祀られ、明暦大火のは、諸宗山無縁寺回向院が建立された。その時の燒死者は舟で運んで、六十間四方に掘り埋めたといふ。
 この大火の町、深川にも、本所にも幕府の倉庫があり、商庫もあつたことは、深川の河岸藏には、米十萬七千俵、其他に、豆、麥、酒、油など莫大だつたと、伊勢貞丈の隨筆には記載されてゐると…

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