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北京の生活
ぺきんのせいかつ
作品ID47660
著者長谷川 時雨
文字遣い旧字旧仮名
底本 「桃」 中央公論社
1939(昭和14)年2月10日
初出「文藝春秋」1937(昭和12)年11月
入力者門田裕志
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2009-03-06 / 2014-09-21
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 そのころ、義弟の住居は、東三條胡同といふ、落着いた小路にあつて、名優梅蘭芳の邸とおなじ側にあつたが、前住のふらんす婦人の好みで、多少ふらんす風に改築された支那家屋だつた。
 であるからかも知れないが、玄關をはいると、水族館とも箱庭式ともどつちともつかない、噴水と泉水と、花壇と鉢植の一間があつて、夜は花やかな電燈が點くやうになつてゐる。地下室のレストーランなどが眞似てもよい――また、どこかそんな氣もするところがある好みだつた。その隣室が大小二箇の客間になつてゐた。その次に食堂があつた。
 二枚折の腰屏風の片つぽが長いやうな全體の建てかたで、庭に面して折れ曲つてゐた。食堂が兩方の曲り角になつてゐて、書齋、寢室、湯殿、控部屋と、ずつと奧に、すぐに庭へ出られる廣い部屋が二室あつて、義弟の家では、子供たちが東京の學校に來ないうちは子供部屋と藏がはりにつかつてゐた。
 私の妹は北京に住みつくと、すぐに樟材で櫃をつくらせたといつて、その物置に幾箇もならべてあるのを見せた。好い樟の、一枚板が、とても安く買へるから、これならば何を入れておいても蟲がつかないから、このまま歸る時はもつて歸るのだといつてゐた。事實それは、此方へ歸つて來てから、立派な、とても好い洋服だんす幾箇に化けてゐる。
 私はその時の、妹の生活が、ものを書くものには理想的なので羨ましかつたので、勉強するには北京に住んで、東京へは刺戟を受けに來たいとその後もよく言つた。それより前は、住むには奈良がよからうとか、京都がよいとかいつてゐたが、一足飛びに北京黨になつてしまつた。それほど、細君の樂なところなのだつたのだ。もとよりそれは、中流以上の生活ではあらうけれど、その生活費の安さは、たうてい思ひもよらないことでもあつたからだ。
 私たちは夕方に北京に着いたのだが、靜な晩春の暮色の中で、丁度張作霖の晩年敗戰の時で、市中に戒嚴令がしかれてゐたので、兵隊が手荷物をしきりに改めた。同仁病院々長であつた義弟の關係やら何かで、大勢の出迎へをうけたので、荷物は馴れた人達がどんどん運んでくれてしまつたが、停車場の裏手の方へ出るのに、高い橋のやうなところを渡つてゆくと、若い兵隊たちが化粧鞄をあけたりして、しやがんで、細かいものを見はじめた。私は彼等が頭を集めてゐる金屬製の容器類から、匂ひのよいクリームや、仁丹を彼等の掌へ振り出して見せてやつた。それらの兵隊たちは、後の日に見た昔風の、藍色に赤い丸を染めた、ダブダブの支那服を着てゐるのとちがつて、ふと見ると、日本の兵隊さんたちと間違ふほど、キツチリした軍裝をしてゐた。
 そんなふうに、遲く着いたので翌朝眼がさめると、誰よりも早く朝の庭を、窓をひらいてゆつくりと眺めてゐた。と、ひとりの老人が、木立の間を丁寧に掃ききよめて打水をしてゐるのが、いかにも親切なやりかただが、此家の雇人としては、…

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