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みず
作品ID47662
著者長谷川 時雨
文字遣い旧字旧仮名
底本 「桃」 中央公論社
1939(昭和14)年2月10日
初出「生活と趣味」1935(昭和10)年7月8日
入力者門田裕志
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2009-01-31 / 2014-09-21
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 趣味とは、眺めてゐるものと、觸はつて見るもの、觸れなければ堪能できないものと、心に養つてゐるものとがある。それを大づかみに一括して「趣味」といふのだらうが、自分に出來ないことを羨ましがるのも、いい意味での趣味だ。それは羨望には、ものねたみをふくむ憂ひはあるが、こんなのは甚だ罪が淺い――
 といふのは、私には水泳が出來ないのだ。これは水ぎらひとか、恐怖とかいふのから出來ないのではなくて、生れた土地的のものからと、體質からとで、水練の機會がなかつたからだが、これは、一生を通じて損をした大きなものだと思ふ。
 場處により、土地によると、別に財物がなくても修練の出來る業であり、また健康でさへあればほんの僅かの暇さへあれば、自由に樂しまれることであり、それによつて、夏の生々しさを、どれほどよろこびをもつて迎へることが出來るかわからない。わたしは健康でさへあればといつたが、その健康もまた、それによつて惠まれもする。
 わたしのお友達で、水練に熟達してゐる人に、神近市子さんがある。神近さんは南國の海邊のお生れであり、拔手を切つて泳ぐ颯爽たる姿は、誰の目にも思ひうかべられるであらうが、も一人、平塚明子さんが、水の上の仙境を自由にされることは、あんまり知る人がない。
 ――海面に浮いて、空を、じつと眺めてゐると、無念無想、蒼空の大きく無限なることをしみ/″\とおもふ――
 かつて、そんなふうに話されたことがある。それは、わたしが常不斷、海にういて、大空を眺めてゐたらば――と思ふ、悠久たる想念と合致した、實行の報告なので、さぞ、さこそ、さもさうあらうと、想像しても樂しかつた。それは、考へれば怖い水の下の深さ、廣さ――けれども、それは、仰ぎ見る空の深さ、大きさにくらぶべきでもない。そして、そこに浮ぶ人間の怖れは、小さな抵抗――生に執着した瞬間からの怖さであらうが、そんなことに拘泥しないのは、泳いで歸られるだけの自信があり、水はよく浮かしてくれるといふ體得があればこそである。
 うらやましいなあと思ふ。水が充分におよげて、人も家もないあたりで、大空にむかつて浮んでゐるその瞬間、もしこれをわたしに天が與へてくれたならば、わたしは何をそこで會得するか、それとも何にもしないか――
 私は不自由な、都會生れの子だつた。しかも、まだ封建的殘物の濃厚な時代に、藏と藏の間に生れた虚弱兒だ。品川の海を時々ながめ、鎌倉の海を、やつと見せてもらへる位だつた。男女七歳にしての庭訓きびしくて、水練の修得などをうる機會はなかつた。それでゐて、そこに蟄服して育つた女の子わたしは、馬に乘ることと、海におよぐことが、一度やつてみたい念願だつた。やつてみて、やれなくはなかつた年頃になると、病ひがちな身になつてしまつた。
 泳げないから水をおそれる。そのくせ水が――水邊がすきだ。水の趣きは、實に興趣多々だ。ことに盛…

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