えあ草紙・青空図書館 - 作品カード
楽天Kobo表紙検索
桃
もも |
|
作品ID | 47669 |
---|---|
著者 | 長谷川 時雨 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「桃」 中央公論社 1939(昭和14)年2月10日 |
初出 | 「明日香」1936(昭和11)年5月 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | 仙酔ゑびす |
公開 / 更新 | 2009-01-31 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 3 ページ(500字/頁で計算) |
広告
広告
桃。
わたしは、桃の實と女性とを、なにとなく特殊なむすびつきがある氣がして、心をひかれてゐる。それが、なんであるかを、まだはつきりしないのに、とにかく、その大切にしてあるものを、心に熟さないうちに、まだ青い實のうちに、ともかく「明日香」發行のお祝ひに捧げるやうになつた。
今、わたしの部屋に西王母の軸がかけてある。高村光太郎氏刀の桃の實の置物がある。わたしは、それらに示唆されて、桃、といふ題を書いてしまふやうになつたのかもしれない。三千年に一度、花咲き實るといふ仙郷の「桃」は、この場合、藝術の園に遊ぶ人の誰しもが掴まんとするのを、象徴してゐると見てもいい。
芙蓉齋素絢ゑがく西王母は、桃林を逍遙する仙女の風趣氣高く、嫋々としてゐる。その足許近くにある、高村さんの桃の實は、ある朝、庭の木にはじめて實つたのをとつて、感興の逸せぬうちにと刻まれた作品で、稍まだかたい實の青さに、赤みを交へ、もぎつた枝あとの、青い葉の影には、金色の小蜘蛛がかくれてゐる。わたしは愚かにも、その金色の小蜘蛛に化した大仙女西王母を夢見て、時刻を消しては、あわてたりしてゐる。
人は、あまり人を可愛がると、食べてしまひたいほどだといふが、わたしは、熟した桃を見ると、食べてしまふのがをしくなる。あの淡黄色に、ポツと赤味のさした、生毛のある、赤ン坊の頬のやうな薄皮から、甘露といふと古くさいが、金色のあぶらのやうな液體を、細かくふくんで吹いてゐる生々しさ――それは實に人間に近い美を持ち、人間的な感覺だともいへる。新鮮な肉の感じといふ方は、裂きたての西瓜に感じもするが、桃がわたしに感じさせるものは、もつと高貴的で、精神的で、デリケートな、ちよつと言ひ現はしにくいものだ。
いつであつたか、上野で、ある展覽會に、ある人の描いた「桃」を見たが、あまり大きくもない畫面の、たつた一個の桃に引きつけられて、いつまでも佇んでゐた。不用意にも畫家の名は忘れてしまつたが、いまだにそのにじんだ描きかたが目のなかに殘つてゐる。その畫はかなり現實的で、人間を思はせるものだつたが、わたしはその「桃」を忘れない。その桃は生きてゐたのだつた。桃それよりも、もつと人間くさい、何か作者の感じてゐるものを現はしてゐた。あまりに強くそれを現はしすぎた作品だとは思つたが、不思議と心をひかれてゐる。さうした表現のよしあしはとにかくとして、なにか、桃と人と傳説とを見つめてゐるものを受けとつたのだつた。
日本一の桃太郎は、桃の中から生れたといふ、それにもまさるめでたき作品を、生めよといふ祝言がはりに、ふとしも、こんな、蕪雜なものを書いてしまつた。多謝!
(「明日香」昭和十一年五月號)