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のらもの
のらもの
作品ID4767
著者徳田 秋声
文字遣い新字旧仮名
底本 「現代文学大系 11 徳田秋声集」 筑摩書房
1965(昭和40)年5月10日
初出「中央公論」1937(昭和12)年3月
入力者高柳典子
校正者土屋隆
公開 / 更新2007-06-11 / 2014-09-21
長さの目安約 31 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

     一

「月魄」といふ関西の酒造家の出してゐるカフヱの入口へ来た時、晴代は今更らさうした慣れない職業戦線に立つことに、ちよつと気怯れがした。その頃銀座には関西の思ひ切つて悪どい趣味の大規模のカフヱが幾つも進出してゐた。女給の中にはスタア級の映画女優にも劣らない花形女給も輩出してゐて、雑誌や新聞の娯楽面を賑はしてゐた。世界大戦後の好景気の余波と震災後の復興気分とが、暫し時代相応の享楽世界を醸し出してゐたが、晴代が銀座で働かうと思ひ立つた頃のカフヱは較下り坂だと言つた方がよかつた。足かけ四年の結婚生活が何うにも支へ切れなくなりさうになつたところで、辛くも最後の一線に踏み止まらうとした晴代の気持にも既に世帯の苦労が沁みこんでゐた。
 狭い路次にある裏の入口に立つてみると、そこに細い二段の階段があり、階段の側にむせるやうな石炭や油の嗅気の漂つたコック場のドアがあり、此方側の、だらしなく取散らかつた畳敷の女給溜りには、早出らしい女給の姿もみえて、その一人が立つて来て、じろ/\晴代の風体を見ながら、二階の事務室へ案内してくれた。
 晴代は新らしい自身の職場を求めるのに、特にこの月魄を撰んだ訳ではなかつた。震災で丸焼けになつて、それからずつと素人になつて母と二人で、前から関係のある兜町の男から、時々支給を仰ぎながら細々暮らしてゐた古い商売友達の薫が、浅草のカフヱに出てゐて、さういふ世界の空気もいくらか知つてゐたので、何うせ出るなら客筋のいい一流の店の方がチップの収入も好いだらうと思つて、今日思ひ切つて口を捜しに来たのだつた。しかし構へを見ただけで、ちよつと怯気のつくやうな派手々々しい大カフヱも何うかと云ふ気もして、ちやうど「女給募集」の立看板の出てゐるのを力に、いきなり月魄へ飛びこんだ訳だつた。
 カフヱ通ひは木山も何うにか承知した形だつたが、実は承知するも、しないもなかつた。呑気ものの木山に寄りかかつてゐたのでは、永年の願望であり、漸く思ひがけない廻り合せで、それも今になつて考へると、若い同士のふわふわした気分で、ちやうど彼女も二千円ばかりの借金を二年半ばかりで切つてしまつて、漸と身軽な看板借りで、山の手から下町へ来て披露目をした其の当日から、三日にあげず遊びに来た木山は、年も二つ上の垢ぬけのした引手茶屋の子息の材木商と云ふ条件も、山の手で馴染んだ代議士とか司法官とか、何処其処の校長とか、又は近郊の地主、或ひは請負師と云つた種々雑多の比較的肩の張る年配の男と違つた、何か気のおけない友達気分だつたので、用事をつけては芝居や活動へ行つたり、デパートでぽつ/\世帯道具を買ひ集めて、孰も色が浅黒いところから、長火鉢は紫檀、食卓も鏡台も箸箱も黒塗りといつた風の、世帯をもつ前後の他愛のない気分や、木山が遊び半分親店へ通つてゐる間に、彼女自身は裁縫やお花などを習ふ傍ら、今迄の…

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