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罠に掛った人
わなにかかったひと
作品ID47763
著者甲賀 三郎
文字遣い新字新仮名
底本 「「探偵」傑作選 幻の探偵雑誌9」 光文社文庫、光文社
2002(平成14)年1月20日
初出「探偵」駿南社、1931(昭和6)年5月号
入力者川山隆
校正者伊藤時也
公開 / 更新2008-12-12 / 2014-09-21
長さの目安約 21 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

        一

 もう十時は疾くに過ぎたのに、妻の伸子は未だ帰って来なかった。
 友木はいらいらして立上った。彼の痩こけて骨張った顔は変に歪んで、苦痛の表情がアリアリと浮んでいた。
 どこをどう歩いたって、この年の暮に迫って、不義理の限りをしている彼に、一銭の金だって貸して呉れる者があろう筈はないのだ。それを知らない彼ではなかった。だから、伸子が袷一枚の寒さに顫えながら、金策に出かけると云った時に、彼はその無駄な事を説いて、彼女を留めた。然し、伸子にして見ると、このどうにもならない窮境を、どうにかして切抜けたいと、そこに一縷の望みを抱くのにも無理はなかった。で、結局友木は無益な骨折と知りながら、妻を出してやる他はなかった。そうして、結果は彼の予期した通り、妻はいつまで経っても帰って来ないのだった。彼女は餓と寒さに抵抗しながら、疲れた足で絶望的な努力を続けているに違いないのだ。
 彼は可憐な妻が、あっちで跳ねつけられ、こっちでは断わられ、とぼとぼと町をさまよい歩いている姿を思い浮べたが、それはいつとはなしに、狐のように尖った顔をした残忍そのもののような高利貸の玉島の、古鞄を小脇に掻い込んで、テクテク歩いている姿に変った。友木の眼には涙がにじみ出た。彼はそれを払い退けるように、眼を瞑って頭を振ったが、彼の握りしめた拳は興奮の為にブルブル顫えた。
 この春、彼と妻とは続いて重い流行性感冒に罹った。ずっと失業していた友木は、それまでに親戚や友人から不義理な借財を重ねていたので、万策尽きて玉島から五十円の金を借りた。それからと云うものは、友木は病気から十分に恢復し切らない身体で、血のような汗を流しながら、僅かな金を得ると、その大半は利子として玉島に取られて終うのだった。そして、借金は減る所か、月と共にグングン増えて、いつか元利積って二百円余りになった。玉島は少しも督促の手を緩めず、殊に年の暮が近づいて来ると、毎日のように喚めき立てに来るのだった。友木夫妻が三日ばかり食物らしいものを口にせず、年の暮を控えて、一銭の金も尽き、路頭に迷い出る他に道のなくなったのは、玉島の為だと云っても好いのだった。
 妻の帰りを待ち侘びながら、友木の心の中は玉島を呪う念で一杯だった。
 ジ、ジ、と異様な音を立てて、最後の蝋燭が燃え切ろうとした。ゆらゆらとゆらめく焔に、鶏小屋にも勝って荒れ果てている室の崩れ落ちた壁に、魔物を思わすような彼の黒い影が伸びたり縮んだりした。
 玉島を呪い続けていた友木の胸にふと或る事が浮んだ。彼はぎょっとして四辺を見廻したが、やがて、彼は一つ所をじっと見詰めた。彼の表情は次第に凄くなって来た。顔は土のように蒼くなった。
「うむ」
 彼は苦しそうに唸った。両方の顳[#挿絵]からはタラタラと糸のような汗が垂れた。
「うむ。殺っつけてやろう」
 彼はとうとう最後…

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