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学究漫録
がっきゅうまんろく
作品ID47850
著者朝永 三十郎
文字遣い旧字旧仮名
底本 「明治文學全集 80 明治哲學思想集」 筑摩書房
1974(昭和49)年6月15日
初出「精神界 第二卷一一、一二號」1902(明治35)年11、12月
入力者岩澤秀紀
校正者川山隆
公開 / 更新2008-07-13 / 2014-09-21
長さの目安約 14 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

是れは實驗の結果ではなくして、唯、學究的の觀察に過ぎぬのであります。

     一 苦に對する三種の態度

 苦を脱するために苦に對する我々の態度に大凡三種の別があるだらうと思はれます。第一は苦をあきらめるのである。第二は苦と健鬪するのである。第三は苦を樂觀するのである。
 途中で不意に風雨に遭ふ。傘はなし。雨宿りすべき家もない。立寄るべき樹陰もない。かういふ場合に、先づ、切りに愚痴をこぼして、恨んで甲斐もない天を恨むなどは到底苦を脱する所以ではないのであるが、其外に、一旦は、これは困つたことになつたと思ひながら、又忽ちに思かへして、まあまあ[#挿絵]り合せが惡るかつたのだから仕方がないといふ風にあきらめて、濡れながらぽつぽつ歩くといふのは第一に屬するものであります。併しながら、我々は又、時としては、殊更に困難と健鬪して見たいといふ樣な氣を起して、履物でも脱いで、尻でも高く端折つて、強て風雨を衝て駈出して大に痛快を覺ゆるといふ樣なこともある、是れは第二に屬するのであります。又、在り合せの蓮の葉でもちぎつて頭にかぶり、自ら畫中、詩中の人となつて、是れも風流だといふ風に、苦の根本たる風雨を美化し、樂觀するのは第三に屬するのでありませう。
 非常の貧苦に迫るとか、非常の不幸に遭遇するとか、非常の迫害に出遭ふとかいふ場合に當て、一旦は神の正義を疑ひ、佛の慈悲、聖母の愛を疑ひ、天道の是非を疑ふて、人を怨み天地を恨むといふ樣なことは、時に人情避くべからざることではありますが、併しながら、是れは到底苦を脱する所以ではない。夫れで、我々は是れを因縁事とあきらめる、是れは第一である。一つ大奮發をやつて、息の續く限り、此貧苦、此不幸、此迫害と健鬪して見んとする、是れは第二である。尤も此場合では、苦と健鬪して苦の原因を絶つた時にも勿論苦を脱することが出來るのでありますけれども、此第二の場合は决して之を指すのではなくして、其健鬪の瞬間に於ける脱苦の状態を指すのであります。又、疏食を食ひ、水を飮み、肱を曲げて枕にす、樂亦其中に在りといふ風に、貧苦を美化し、或は、若し我配處に赴かずんば何を以てか邊鄙の群類を化せんと言つて、迫害を樂觀し、或は其中に一種の意義を認むる樣なのは第三である。
 第一も第二も、畢竟、苦の避くべからざること、已むを得ざることを觀ずるといふ點に於ては同一であるけれども、前者は受動的であつて、後者は能動的である。前者は苦を因果と觀じ、後者は之を義務と觀ずる。尤も、此因果の觀念と義務の觀念とは、人により、場合により、明亮に意識上に現はれて居ることもあり、又は現はれて居らぬこともあるけれども。第一は、苦を因果と觀じ、自己は徹頭徹尾受動的の態度を取つて、全然苦に服從するのである。苦に服從するといへば、未だ苦を脱して居らぬ樣にも聞ゆるけれども、左樣ではない。苦なるものはもと…

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