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馬車を待つ間
ばしゃをまつあいだ
作品ID47865
著者堀 辰雄
文字遣い旧字旧仮名
底本 「堀辰雄作品集第一卷」 筑摩書房
1982(昭和57)年5月28日
初出「新潮 第二十九年第五号」1932(昭和7)年5月号
入力者tatsuki
校正者大沢たかお
公開 / 更新2012-10-12 / 2014-09-16
長さの目安約 18 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



「やあ綺麗だなあ……」
 埃りまみれの靴の紐をほどきながら、ひよいと顏を上げた私は、さう思はずひとりごとを言つた。
 崖ばらに一かたまり、何んの花だか、赤やら白やら咲きみだれてゐるのが、夕闇を透かしながらくつきりと見えたのである。
「その躑躅でございませう? ――本當に今が見頃でございます……」
 ひとりごとのやうに言つた私に、さう愛想よく答へたのは、一番末の妹らしい嬰兒をおぶつたまま私を出迎へてくれて、いま私の背後に立つてゐる、二十ぐらゐの素朴さうな娘だつたが、――即座に、これが友人の話の、と私は思つたけれど、その頃は私だつてそれと知つてその娘の顏を不躾けにまともから見られるやうなんぢやなかつた。……
「へえ、あれが躑躅!……」と私はさも感嘆したやうに言つた。
 實際、躑躅なんて云ふ花は、東京の山ノ手線の停車場の崖ばらなどに散りぎは惡く何時までも咲いてゐる汚らしい奴ばかりだと思つて居たものだから、私にはその同じ花がこんなにも綺麗に咲くとはちよつと信じられない程だつた。――私はふと自分の身がいま邊鄙な山奧の温泉場にあることを思つた。さうしたら何んだか快いやうな切ない氣持になりだした。これがその旅愁と云ふものかしら。
 何しろ私の生れて初めてと言つていい一人旅だつた。それをこんなにも山の奧まで長いことガタ馬車に搖られて來たんだものを。――と、私は東京から此處までの約半日がかりの旅路を思ひやつたのである。……丁度その日の三時頃、汽車が初夏の山へさしかかり、幾個も幾個も長々とした隧道をくぐり拔け出した時分には、それをひどく心許ながつて、もう一人でなんぞ旅に出て來たことを私は少からず後悔し出してゐた。――汽車はそんな私には無頓着に、隧道から青葉へ、それからまた隧道へと走りつづけてゐたが、その隧道と隧道との間隙を見つけては、あたかも噴水がほとばしるやうに、無數の青葉の簇りがまぶしい光を浴びながら、私の眼のなかへ躍り込む。それもはんの一瞬間きりで、すぐ又すべてはもとの暗黒のなかに消え立つてしまふ。――實は、私達だけがその隧道のなかに吸ひ込まれてしまふのだけれど、それが私にはさう見えぬ。何んだか私達と一緒に、それらの青葉までが隧道のなかに吸ひ込まれて行くやうな氣がする。そしてそれらの青葉らも隧道の外にあるのは私達と同じにごく僅かな間だけなので、その間に出來るかぎり多量の日光を吸收しようとして、それらは死物狂ひになつて身もだえしてゐるのではないかと思はれる位に、如何にも目まぐるしく、まぶしく私の眼に映るのだ。それらの青葉は又、私が窓ぎはで少し深い呼吸をする度毎にはげしく匂つた。それは隧道の中では一層はげしく匂ふやうだつた……
 その日の暮れ方、私は山間の或る小さな驛に下りた。本線を何んとかいふ驛で輕便鐡道に乘り換へて、それから約一時間ばかり、その狹苦しい客車の中にちぢ…

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