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風景
ふうけい |
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作品ID | 47866 |
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著者 | 堀 辰雄 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「堀辰雄作品集第一卷」 筑摩書房 1982(昭和57)年5月28日 |
初出 | 第一稿「山繭 第十号」1926(大正15)年3月1日、改稿「文學 第六号」1930(昭和5)年3月1日 |
入力者 | tatsuki |
校正者 | 染川隆俊 |
公開 / 更新 | 2012-12-11 / 2014-09-16 |
長さの目安 | 約 7 ページ(500字/頁で計算) |
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波止場の附近はいつものやうに、ぷんぷん酒臭い水夫や、忙しさうに陸揚してゐる人夫どもで一ぱいだつた。僕はさういふさなかを窮窟さうに歩くといふよりも、むしろ人氣のなささうなところを、ところを、と拾ひながら歩いてゐた。すると突然、僕は或るへんてこな一區域に迷ひ込んでしまつたのである。
しかし僕がそこをへんてこなところだなと思つたのは、次の瞬間、人が始めて風景といふものを見たやうな驚きに一變してゐた。
そこは實に靜かな場所だつたのである。どうも僕にはその位置の見當がはつきりつかないのだが、波止場をまごまごしてゐるうちに、いきなり迷ひ込んでしまつたのだから、むろん波止場の一部なのには違ひない。ただ僕に解つてゐることは、非常に低くなつて聞えてくる波止場のざわめきが、かへつてこの場所の靜かさを決定的にしてゐる位に、そこから離れてゐることだけだ。
その周りには、高い塀に取り圍まれた古ぼけた建物が、ただ一つきりしかなかつた。それはしかし僕の視野をきはめて狹くしてゐたのである。波止場はすつかりその蔭になつてしまつてゐて、そこから見えるのは殆んど海ばかりだつた。それがここを波止場の尖端のやうにも思はせるのである。そして僕の立つてゐるのはその建物の中庭らしい。中庭といつても、ここには一本の樹さへなく、ただ禿げた土の上にちよぼちよぼと雜草が生えてゐるばかりである。そして何の堤防らしいものもなしに、いきなり海に面してゐた。
そのやうに狹められた僕の視野のなかの海の上には、ただ一艘、前世紀の遺物のやうな古ぼけた汽船が浮んでゐるばかりだつた。その古ぼけた汽船はなんだか玩具めいて見えるのにも拘はらず、ふしぎに膨大で、この風景の額縁からはみ出てゐるやうな不調和な感じさへするのだ。それは光線の加減で水の上にばかに大きく映つてゐる船全體の影のせゐもあるらしかつた。
しばらくその汽船に子供のやうに見とれてゐると、僕の眼にはひとりで空の一部分がはひつてきたのである。それは硝子の破片のやうに光つて見えた。小さな眞白な雲が、たくさん、汽船のマストを中心にして塊まり合つてゐる。その中でゆるやかに動きつつあるものは、いづれも魚に似た形をしてゐる。中にはクラゲのやうなのもある。またぢつと動かずにゐるものは、僕に、きれいな貝殼を思ひ出させた。それはまるで海の中がそつくりそのまま空に反射してゐるやうなのである。いままで僕は遠くの方に對岸のやうなものを認め、そしてそこに數箇の骰子のやうな洋館が塊つてゐるやうに思つてゐたが、それは見る見るうちに船のマストの方へ昇つていつた。それもまた雲だつた。……
だが、僕が異常に魅せられてゐるのは、さういふ單なる風景の美しさではなかつた。それは何かしら超風景的なものだつた。あの第一印象――始めて風景を見たやうな驚きは、いまだにその生ま生ましさを失はずに僕の中に殘つてゐる…