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X氏の手帳
エックスしのてちょう |
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作品ID | 47882 |
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著者 | 堀 辰雄 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「堀辰雄作品集第四卷」 筑摩書房 1982(昭和57)年8月30日 |
初出 | 「1929 第二十一号」1929(昭和4)年11月1日 |
入力者 | tatsuki |
校正者 | 染川隆俊 |
公開 / 更新 | 2011-04-05 / 2014-09-16 |
長さの目安 | 約 4 ページ(500字/頁で計算) |
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或る夜、或る酒場から一人の青年がふらふらしながら出て來た。彼は非常に泥醉してゐるやうに見えた。タクシイ! と彼は聲高に叫んだ。
一臺の汚らしいタクシイが止つた。彼はふらふらしながらそれへ乘つた。車はがたがた走り出した。それをちやうど巡[#挿絵]中の巡査がやや離れた所から見てゐたのであつた。車が走り去つてしまふと、その跡に手帳のやうなものが落ちてゐるのを巡査は認めた。青年が落して行つたものらしかつた。そこまで歩いて行つて見ると、それはやはり黒皮の手帳だつた。巡査はそれを取り上げて、街燈の光りで、ところどころ讀んで行つた。
午前九時に
僕は眼をさますのだ
頭の中から夢が逃げてゆくのを見ながら
僕はすこし頭痛がする
僕は新聞を讀む
食慾増進劑として
それから僕はチュウリップのやうに食事をする
そしてそれを消化するため
再びベットの上に横になる
ブライヤアのパイプを吹かしながら
それは僕の掌をまるで小鳥のやうに温める
僕は漸く落着く
それから僕は机に向つて
猿が蚤を探すやうに
僕のインスピレエションを探す
僕はペンを取り上げる
…………
そこまで讀んでくると、巡査はぱらばらと頁をめくつたのである。
夜になつて
僕の部屋に一人でゐると
僕はあんまり僕になり過ぎるのだ
それは何といふ不安だ
僕は帽子をかぶつて
出かける
僕は一晩中歩く
僕はあんまり僕になり過ぎぬために
無茶苦茶に歩く
僕はしまひに疲勞する
そして疲勞が増加するにつれて
僕の鼻が病的に鋭敏になる
ゴムの匂がしたりゴミの匂がする
よい匂と悪い匂とはよく混らないものだ
時々たまらない匂がする
その度に僕は鼻孔を閉ぢる
數分間の窒息
僕は何よりも休息を求めなければならぬ
僕は近くの酒場に入つて
テエブルに突伏す
それはすぐ酒のしみとタバコの吸殼で道路のやうに汚れる
そして僕に無理に思ひ出させようとするのだ
僕をそんなにも疲勞させたその夜の道筋を
それが再び僕の疲勞を蘇らせる
それからもはや僕には分らない
僕の横になつてゐるのが
自働車のクッションの上であるか
それとも何處だか知らぬホテルのベットの上であるか
巡査の眼には、さつきの青年がガタガタしながら走つてゆく自働車の中にぐつたり倒れてゐる樣子が、妙にいきいきと浮んだ。それからまた出たらめに他の頁を開いた。
女の羞恥の方程式ほど難解なものはない。僕は或る少女が彼女の心臟の上にX2+2aXを持つてゐるのに出合つた。
それは彼女にすばらしく似合つてゐた。
いくら讀み直して見ても、それはなんのことか、解らなかつた。また、ぱらぱらとめくつてゐるうちに、他は全部インキで書かれてあるのに、そこだけが鉛筆で書かれてある一箇處が眼にはいつた。
僕は昨夜インキを飮んでしまつた夢を見た。僕は、今日、インキが恐ろしい。そしてなんだか僕の靜脈が氣になつて仕方が…