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芥川竜之介論
あくたがわりゅうのすけろん
作品ID47895
副題――芸術家としての彼を論ず――
――げいじゅつかとしてのかれをろんず――
著者堀 辰雄
文字遣い旧字旧仮名
底本 「堀辰雄作品集第五卷」 筑摩書房
1982(昭和57)年9月30日
初出「堀辰雄全集 第五巻」新潮社、1955(昭和30)年3月10日
入力者tatsuki
校正者岡村和彦
公開 / 更新2012-12-27 / 2014-09-16
長さの目安約 72 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 芥川龍之介を論ずるのは僕にとつて困難であります。それは彼が僕の中に深く根を下ろしてゐるからであります。彼を冷靜に見るためには僕自身をも冷靜に見なければなりません。自分自身を冷靜に見ること――それは他のいかなるものを冷靜に見ることよりも困難であります。しかし、それと同時に、あらゆる文學上の批評の價値は、いかにその批評家が自分自身を冷靜に見ることが出來たか、と云ふ度合によつて測られるのであります。批評と云ふものが、他人の作品を通しての自分自身の表現であります以上は。
 もう一度言ひますと、批評する事は他人の作品を通じて自分自身を表現する事であります。批評家はそのために――彼自身を表現するためには彼の魂に最も近い他の魂の作品を持つて來ずには居られません。しかし、その彼の魂に最も近い他の魂を批評するには、どうしても自分自身を冷靜に見ることが必要となつて來ます。そこに批評家の苦しい矛盾があります。仕事の困難があります。しかし實はその困難そのものがよき魂を仕事に誘惑するかのやうに僕には思はれるのであります。よき魂は、自分の仕事が困難なればなるほど、その仕事に興味を持つものだからであります。
 芥川龍之介を論ずるのはそのやうに僕にとつて困難であります。しかし、それと同時に僕は、その故に彼を論ずる事に情熱を持たずにはゐられません。
 しかし芥川龍之介を論ずると言つても、彼の作品の價値を論じたり、彼の文學史上の位置を論じたりするのは、當然、より後代の人を俟たなければならないでせう。唯僕が此處に論じたいのは、いかに彼の藝術が僕の中に根を下ろして行つたか、そしてまた、いかに彼の藝術が彼自身をしてあのやうな悲劇的な死に到らしめたか、と云ふ事であります。
 芥川龍之介は僕の眼を「死人の眼を閉ぢる」やうに靜かに開けてくれました。僕はその眼でゲエテやレムブラントの豐かな美しさを、ボオドレエルやストリンドベリイの苦痛に似た美しさを、そしてセザンヌや志賀直哉の極度の美しさを見てゐるのであります。そして又、僕はその眼で芥川龍之介身の作品をも見てゐるのであります。僕のその眼は彼の作品の缺點をも見逃さないでせう。僕はそこにも我々人間の負はされてゐる宿命みたいなものを感じずにはゐられません。
 僕は芥川龍之介の諸作品の中で最も晩年の作品を愛します。彼を賞讚する多くの批評家達も、彼の初期の作品の中に最もよき彼を見出し、晩年には彼の痩せてしまつた事を言つてゐるやうでありますが、その點は僕は不贊成であります。從つて、この僕の論文は、その中心が晩年の芥川龍之介論となり、初期の彼は晩年の彼に進んで行くプロセスとしてのみ論じられる事となりはしないかと思ひます。それは僕にとつて止むを得ません。實は、僕も最初、彼の晩年の作品の痩せ細つた姿を唯痛々しさうに見てゐた一人でありました。しかし彼は最後に、彼の死その…

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