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伊勢物語など
いせものがたりなど |
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作品ID | 47898 |
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著者 | 堀 辰雄 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「堀辰雄作品集第五卷」 筑摩書房 1982(昭和57)年9月30日 |
初出 | 「文藝 第八巻第六号」1940(昭和15)年6月号 |
入力者 | tatsuki |
校正者 | 岡村和彦 |
公開 / 更新 | 2013-03-17 / 2014-09-16 |
長さの目安 | 約 8 ページ(500字/頁で計算) |
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今夜、伊勢物語を披いて居りました。そのうちふいと御誌からのお訊ねを思ひ出しましたので、とりあへずペンを取つて、只今、考へてをるがままに書いて見ることにします。
僕がこのペンを取るまで、氣もちよく讀みふけつてゐた伊勢物語の一段はかういふのです。短いものなので、全部引用してみませう。
むかし、男ありけり。人の娘のかしづく、いかでこの男にものいはむと思ひけり。うち出でむこと難くやありけむ、もの病になりて死ぬべき時に、かくこそ思ひしかといひけるを、親聞きつけて、泣く泣く告げたりければ、まどひ來りけれど、死にければ、つれづれとこもりをりけり。時は六月のつごもり、いと暑きころほひに、宵はあそびをりて、夜ふけてややすずしき風吹きけり。螢たかくとびあがる。この男、見ふせりて、
とぶ螢雲の上までいぬべくは秋風ふくと雁につげこせ
くれがたき夏の日くらしながむればその事となくものぞかなしき
かういふ一段を讀んでをりますと、何かレクヰエム的な――もの憂いやうな、それでゐて何となく心をしめつけてくるやうなものでいつか胸は一ぱいになつて居ります。「宵はあそびをりて」――自分ゆゑに死んでいつた女の棺の前で、男はその魂を鎭めるために音樂などをしてその宵を過ごしてゐた。「夜ふけてややすずしき風吹きけり。螢たかくとびあがる。」もうなすわざをやめて、横になつてゐた男は、その螢に向つて、死者の魂をもう一度戻すやうに「雁につげよ」と乞ふやうな氣もちになる。昔は、雁にかぎらず、鳥はすべて魂を運ぶものと考へられて居たからである。――その次ぎの歌は、それと同じ夜に歌つたものではなく、それから數日といふもの、ずつと喪にこもつてゐた男が或夕ぐれなどにふと歌つたものでありませう。「その事となくものぞかなしき」――別に自分がしたしく逢つてゐた女と死別したのではない。だから、その事と思ひ出して悲しむ節はないけれど、自分ゆゑ死んだのだといふ事を考へるといかにも不便な氣がして、長い日ねもす思ひつづけて男はもの悲しさうになる。――そのうつけたやうな男のおもはず洩らす溜息までが手にとるやうに聞えてくるやうな一段であります。
この一段は、古註によりますと、萬葉集卷十六の車持氏の娘子の戀二夫君一歌を採つて換骨脱胎して一篇の物語としたのであらうと言はれて居ります。ついでに、その萬葉集の歌といふのも引用して見ませうか。
夫君に戀ふる歌一首并に短歌
さにづらふ 君が御言と 玉梓の 使も來ねば 思ひやむ わが身一つぞ ちはやぶる 神にもな負せ 卜部坐せ 龜もな燒きそ 戀しくに いたきわが身ぞ いちじろく 身にしみとほり むらぎもの 心くだけて 死なむ命 俄かになりぬ いまさらに 君か我をよぶ たらちねの 母の命か 百足らず 八十の衢に 夕占にも 卜にもぞ問ふ 死ぬべき我がゆゑ
反歌
我命は惜しけくもあら…