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嘉村さん
かむらさん
作品ID47901
著者堀 辰雄
文字遣い旧字旧仮名
底本 「堀辰雄作品集第四卷」 筑摩書房
1982(昭和57)年8月30日
初出「嘉村磯多全集 第二巻配本栞」白水社、1934(昭和9)年7月15日
入力者tatsuki
校正者染川隆俊
公開 / 更新2011-04-08 / 2014-09-16
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)

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本文より


 嘉村礒多さんとは三遍ばかりお會ひしました。

 去年の四月頃、或る用事があつて、はじめて私が南榎町のお家をお訪ねしましたら、何處かお體が惡くて寝ていらしつたらしい嘉村さんは、寢卷のまんま、玄關まで飛び出していらつしやいました。そしてそれから今度は普段着に着換へられて、出直していらしつたが、しかし如何にもお元氣らしかつたので、私はついそのまま長居をしてしまひました。その時は、何か原稿でもお書きになつたあとで、ただ何となく御休息されてゐたのだらうぐらゐに、私は自分にもよくそんなことがあるので、呑氣に考へてゐたのです。

 嘉村さんは私の「あひびき」といふ小品をたいへん好いてゐてくれました。さうして二度目にお會ひした時でしたか、それを私の前で言はれ「あれは事實のままではありませんか?」と、すこし微笑をされながら、私に訊かれました。そんな時、若し他の人の前だつたら、「いや、ただあの中に出てくる西洋館だけは實際あつたんだ」ぐらゐな返事をしたかも知れません。が、私は嘉村さんを前にして、ほとんど同時に二通りの返事を考へついて、どつちにしようかとすこし困つた顏をしてゐました。――どうもあれは何もかも嘉村さんのお考へなさるやうな事實のままぢやない、しかし自分の實際に感じなかつたことは何一つ書かなかつたつもりだ。もしあの廢屋だけを事實としたらそれ以外のものもみんな同じぐらゐに事實だと言ひたいし、それを虚構だとするとあの廢屋だつて同じやうな虚構だと言ひたいやうな氣がする。――そんな風にどつちにしようかなと考へながら、私はわれにもなく何もかもつくりごとですと言つてしまつた。……しかし嘉村さんは、すぐ分かるやうな嘘をついた子供をでも見るやうに、私の方を御覽になつて、なごやかに微笑んで居られました。そこで、私もしまひには、微笑み出しました。

 最後にお目にかかつたとき、――嘉村さんが私の家へお遊びにいらつしやられたとき、私はそのお歸りに本郷の白山上までお送りして行きました。それから嘉村さんは古本屋のある方へ、私は上富士前の叔母さんの方へとお別れしました。そのとき嘉村さんは「ああ、あのいつも輕井澤へいらつしやる叔母さんですか?」と言はれました。それは私の「恢復期」といふ小説の中に描いた人物を指して言はれたらしかつたのです。あれはこれが本當の叔母さんだつたらいいなあといふ人のことを、小説の中で勝手に本當の叔母さんにしちやつたんですが、今度は、私はうんともすんとも言はず、ただどつちつかずの、すこし悲しさうな微笑をして見せました。――それが嘉村さんとの最後のお別れでした。いかにも嘉村さんと私との別れかたらしかつたやうな氣がいまだにしてゐます。



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