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黒髪山
くろかみやま |
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作品ID | 47907 |
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著者 | 堀 辰雄 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「堀辰雄作品集第五卷」 筑摩書房 1982(昭和57)年9月30日 |
初出 | 「改造 第二十三巻第十三号」1941(昭和16)年7月号 |
入力者 | tatsuki |
校正者 | 染川隆俊 |
公開 / 更新 | 2011-04-12 / 2014-09-16 |
長さの目安 | 約 9 ページ(500字/頁で計算) |
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源氏物語の「總角」の卷で、長患ひのために「かひななどもいとほそうなりて影のやうによわげに」、衾のなかに雛かなんぞの伏せられたやうになつたきり、「御髮はいとこちたうもあらぬほどにうちやられたる、枕よりおちたるきはの、つやつやと」した宇治の姫君が愛人の薫の君たちにみとられながら、遂に息を引きとつてしまふ。そのとき薫の君が「夢かとおぼして、御殿油をちかうかかげて見たてまつり給ふに、隱したまふ顏もただ寐たまへるやうにて」、なんだかいつまでもその儘の姿にして、置いておきたい程のいぢらしい氣がしながら、「御髮をかきやるにさとうちにほひたる、ただありしながらのにほひに」何とも云へず切なくなる心もちを描いてゐる。私は其處を讀んだとき非常に感動した。
若く美しい女のもう冷たくなつた亡骸を描いて、そのかき亂れた髮の毛だけがまだ生きてゐるときと同じやうに匂ふところを書き添へたのは實に效果的である。これほど簡潔で深い印象を與へる死の場面はさう他處にあるものではない。私達の遠い祖先は既にかういふ效果を知つてゐたのかと思つた。
そこにはもう圓熟した物語作者がゐる。人間の死に對してもあまり怯まず、佛教などで鍛へ上げられた、透徹した觀念を既に持つた人の目であつたにちがひない。
[#挿絵]
この頃私は萬葉集を屡[#挿絵]手にとつて見てゐるが、そんな源氏物語などの頃とは異り、宗教思想が未熟だつたせゐか、生と死との境界さへはつきり分からぬ古代人らしく、
秋山に黄葉あはれとうらぶれて入りにし妹は待てど來まさぬ
とか、又、
秋山の黄葉を茂み迷ひぬる妹を求めむ山道知らずも
などといふ考へ方でもつて死者に對してゐる。これは歌といふものの性質上、わぎとさういふ原始的な素朴な死の觀念を借りて、山に葬られた自分の妻を、恰も彼女自身が秋山の黄葉のあまりの美しさに憑かれたやうにして自ら分け入つてしまつたきり道に迷つてもう再びと歸つて來ないやうに自分も信じてをるがごとくに歎いて、以つて死者に對する一篇のレクヰエムとしたのかも知れない。
萬葉の頃の悼亡の歌には、直接に自分の歎きを痛切に吐露したものよりも、さうやつて死者の葬られた山を對象とし、或は空しくなつた家の日ごとに荒廢してゆく有樣や、故人の遺物である木や花や鳥などを對象としたものが多いやうである。肉體が死んでも魂は分離して亡びないことを信じてゐた古人は、深い山の中をさすらつてゐる死者の魂を鎭めるためにその山そのものの美しさを讚へ、又、死後彼等の居處や木々を拂はずに其處に漂つてゐる魂の落ちつくまで荒れるがままにさせ、ときをりその荒廢した有樣を手にとるやうにさながらその死者の魂に向つていふやうにいふ、――そんな事を私は萬葉の挽歌作者をよみながら考へる。萬葉人たちが實際の信仰としてさういふ考へ方をしてゐたか。或は、もつと古代…