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萩原朔太郎
はぎわらさくたろう |
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作品ID | 47924 |
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著者 | 堀 辰雄 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「堀辰雄作品集第五卷」 筑摩書房 1982(昭和57)年9月30日 |
初出 | 「四季 第六十七号」1942(昭和17)年8月27日刊 |
入力者 | tatsuki |
校正者 | 岡村和彦 |
公開 / 更新 | 2013-02-20 / 2014-09-16 |
長さの目安 | 約 24 ページ(500字/頁で計算) |
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萩原朔太郎は明治十九年十一月一日*、上州赤城山の麓、利根川のほとりの小さき都會である前橋市に生れた。
* 彼はいつも自ら明治二十一年生れと記してゐたが、それは誤つてゐたのである。しかし、十一月一日に生れた長子であつたので、朔太郎といふ名をつけられたといふのは本當である。
父萩原密藏は、大坂の人で、明治十五年東京醫學校を出られると、ただちに前橋に來られて、醫を業とせられてゐた。母は慶といつて、川越の八木氏の出である。そして長子である彼の他には、三人の妹と一人の弟とがゐる。
彼はその兩親よりも、母方の祖父に一番似てゐると云はれる。その祖父八木初といふ人は、川越松平藩士で、會津戰爭のとき、越後法師温泉にて、敵方の隊長河合某を六連發のピストル*にて打ちとつたことのある人である。非常に嚴格な人であつたさうだが、又なかなかハイカラな趣味の持主でもあつて、さういふ點でも將來の詩人となるべき彼の上には深い影響を與へたのであらう。
* 彼の晩年に書いてゐた一册の手帳に「ピストルの話」といふエッセイのための草案らしいものが二三頁にわたつて記せられてあるが、それはその祖父の若いころの話をすぐ私に聯想せしめた。
[#挿絵]
小學校にはひつてから、彼は少年雜誌「小國民*」を毎號愛讀するやうになつた。それは當時(明治二十年代)の時代の思想を反映して、銅版畫などの插繪の豐富に入つた、すこぶる文明開化趣味の横溢した少年雜誌であつて、それが祖父の影響と相俟つて、後年の彼の特異なる趣味を培つたものといへよう。
* 彼の書庫の一隅にその明治二十七八年ごろの「小國民」が一束藏せられてある。しかし、これは晩年になつてから古本屋で見つけて新たに買ひもとめたものださうである。
小學の學科のなかでは、これは父讓りで、數學が一番得意であつたといふことである。又、彼は幼時から大へん音樂が好きであつた*。
* 「四季」萩原朔太郎追悼號所載、萩原彌六「兄の事」參照。
[#挿絵]
彼は十四のとき前橋中學に入つた。(明治三十二年)その中學校は「利根川の岸邊に建ちて、その教室の窓々より、淺間の遠き噴煙を望むべし。昔は校庭に夏草茂り、四つ葉のいちめんに生えたれども……」と彼は後年故郷を望み見ながら書いてゐる。「……われの如き怠惰の生徒ら、今も猶そこにありやなしや。」
「……我れ少年の時より、學校を厭ひて林を好み、常に一人行きて瞑想に耽りたる所なりしが、今その林皆伐られ、楢、樫、[#挿絵]の類、むざんに白日の下に倒されたり。……」
中學にゐたころの彼の孤獨な姿は、さういふ後年の彼自身の詩篇(「郷土望景詩」)によつて彷彿される。
[#挿絵]
前橋中學を出ると、彼はこんどは第五高等學校に入つた。そして一年ばかり熊本に行つてゐたが、その翌年第…