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二人の友
ふたりのとも |
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作品ID | 47930 |
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著者 | 堀 辰雄 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「堀辰雄作品集第四巻」 筑摩書房 1982(昭和57)年8月30日 |
初出 | 「詩神 第六巻第七号」1930(昭和5)年7月号、「文學界 第一巻第四号」1934(昭和9)年9月号 |
入力者 | tatsuki |
校正者 | 染川隆俊 |
公開 / 更新 | 2010-07-12 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 7 ページ(500字/頁で計算) |
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一、中野重治
それからもう數年になるのである。
ある日のこと、僕が田端の室生さんのところへ行つたら、室生さんは「昨日は面白い男がきたよ」と云つた。その男は自分は五十位になつたらいい抒情詩が書けさうだと云つてゐたさうだ。そして大へん酒が好きで、そのためかどうか知らないが、動坂の酒屋に間借してゐた。そして近くその酒屋が深川の方に引越すといふのでたぶんその男も一しよについて行くだらうといふ話であつた。いかにも室生さん好みの男らしかつた。そしてあとで分かつたが、その男が中野重治だつた。
ところが、中野はそれから間もなく、自分が五十になるのを待たないで、詩をどんどん書き出した。それらはすばらしい抒情詩だつた。ことに「波」とか「豪傑」などの諸篇は、僕等の愛誦措くあたはざるものだつた。丁度その時分彼の好きだつた女のひとがアメリカに行つてゐて、そのひとについて彼は「私とお前とは逆樣に立つてゐるのだ」などと書いたりしてゐたものだ。
名前は忘れたが、何とかいふ小さな同人雜誌に發表されてゐたそれらの詩を、僕はほとんど缺かさずに讀んでゐて、室生さんたちとよく噂をし合つてゐたが、僕はまだ中野に會つたことがなかつた。
僕が中野と始めて會つたのは、こんど僕等で同人雜誌をやらうといふので、その頃田端の或る二階に間借してゐた宮木喜久雄のところへ、みんなで落ち合つた時だつた。なんでもみんな五十錢づつ出し合ひ、鳥の臟物を買つてきて、それを鍋にして、取り卷きながら、雜誌のことを話し合つた。酒は室生さんの家からとどけられた。――みんなといふのは、主人役の宮木喜久雄を始め、窪川鶴次郎、西澤隆二、それに僕だつた。――その時、中野はすこし遲れてやつてきた。どこで飮んできたのか、もうすこしいい氣持さうだつた。中野と僕とは初對面だつたが、中野は僕を見て「やア、堀君かね」といつてその柔らかさうな髮毛のモジャモジャした頭をちよつと下げたきりだつた。そしてそれからといふもの、彼はほとんど一人でのべつ幕なしに喋舌り立てた。酒もよく飮んだ。そして鍋のなかから、獨得な手つきで、何かしきりに探し出してそれを口に入れては「うまい、うまい」と云つてゐた。それは慈姑だつた。
慈姑とは、いかにも彼の好きさうなものだと思つて、僕は感心した。さて、話が雜誌の題名のことになつた。すると中野は「シヤリン」といふのはどうかねと云つた。「シヤリン?」何のことかみんなには分からなかつた。そしたら彼は「車の輪の車輪だ」と説明した。そして一人でそれがひどく氣に入つてゐるらしかつた。誰かが、それは字面はいいが、言葉では何のことやら解らないから駄目だと反對した。それでは「赤繩」といふのはどうだいと彼は再び云つた。それはまた誰かにそれはあんまり君だけの好みであり過ぎる、といつて反對された。その時分、もうすでに、僕等の仲間で中野一人だけが「プ…