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水のほとり
みずのほとり
著者
文字遣い旧字旧仮名
底本 「堀辰雄作品集第四巻」 筑摩書房
1982(昭和57)年8月30日
初出「時事新報」1931(昭和6)年3月21日~22日夕刊
入力者tatsuki
校正者植松健伍
公開 / 更新2017-12-28 / 2017-11-24
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 私はいま、こんな胸の病氣で、部屋の中に閉ぢ籠つたきり、殆ど外出することなんかないと言つていい位であるが、――いまから數週間前、まだ私の病氣もこんなに重くならなかつた頃のことだ、晝間のうちはそれでも我慢して寢床の中にもぐり込んでゐたが、夕方になるとなんだか耐らない氣持になつて、私は無理に起き上り、出來るだけ氣輕な散歩者のやうな服裝をして、何のあてもなしに街の中へ出かけて行く習慣があつたものだ。そして私は家を出ると、すぐ前の、今年になつて漸く出來上つた隅田公園のなかを通り拔けながら、或時は枕橋を渡つて、河岸に沿うたままビイル會社の横を拔けて吾妻橋の方へ出たり、また或時はそれと反對の方向に、新築中の牛島神社の裏を拔けて、言問橋の方へ出たりするのであつた。そして吾妻橋にせよ、或は言問橋にせよ、私はそれを渡りながら、ふとその中ほどに立止つて、それらの橋の下を、鈍く、くろぐろと流れてゐる大川に見入るやうなことがあつた。あたかも自分自身の心の状態を試して見るかのやうに。……そしてその時、もし私にアポリネエルのセエヌ河を歌つてゐる詩などがひよつくり思ひ浮ばうものなら、私はそれによつて自分の心の何となく晴れやかであるのを知ることが出來た……

L'amour s'en va comme cette eau courante
    L'amour s'en va
   Comme la vie est lente
 Et comme l'Esp[#挿絵]rance est violente
 Vienne la nuit sonne l'heure
 Les jours s'en vont je demeure

 さういふ時はそれでよかつた……だが、大川の上にあかあかと冬のきびしい夕日が照り、それが濁つた水の色と映り合ひながら、そこに何とも言ひやうのない、凄じいばかりの色感を生じさせてゐる時などは、私はちよつとそれを見ただけでも、何だかぞつと惡寒がするやうな、耐らなく不快な重苦しい心持になつてしまふのだ。その時分は、私にはさういふ惡感が、私の足の下を物憂げに流れてゐる大川の、その赤いとも黒いともつかないやうな、濁つた色の不快さから來るものとしか感じられなかつたが、いまから思へば、それはそのせゐばかりではなく、その當時すでに私の中にこつそり潛在してゐた病熱の、あらゆる水といふ水を嫌惡する性質のためもあつたに違ひないのだ。……

 そんな何となく不快なやうなときにしろ、或はまたアポリネエルの詩句などを我知らず口吟んでゐるほど氣の輕いときにしろ、私は橋の中ほどに佇みながら、ふと、ダダダダダといふ心臟を惡くするやうな音を聞き、そして夕靄の中を、昔から「一錢蒸氣」と呼ばれてゐる、古ぼけた蒸氣船が、それでも小さな波を蹴立てながら私のゐる方へ進んでくるのをぼんやりと目に入れてゐるうちに…

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