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「浴泉記」など
「よくせんき」など
作品ID47947
著者堀 辰雄
文字遣い旧字旧仮名
底本 「堀辰雄作品集第四巻」 筑摩書房
1982(昭和57)年8月30日
初出「帝国大学新聞 五百五十二号」1934(昭和9)年11月28日
入力者tatsuki
校正者植松健伍
公開 / 更新2018-12-28 / 2018-11-24
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 温泉のあまり好きでない私に温泉のことを何か書けといふのである。何か書けるだらう位に、高をくくつてゐたが、いざ書かうとすると、何を書いたらいいのか分らないので、なかなか書き出せない。……
 さつきから机には向つてゐるものの、しやうがないので、二三日前に買つてきた Insel 版のゲエテ詩集をあつちこつちめくつてゐる許りである。拾ひ讀みなどをしてゐるのではない。そんなことの出來るほどに私は未だ獨逸語に通じてゐない。唯、その薄い Leinen 紙の指ざはりが、まことに氣持がいいからであるが、そのうち私は(――ここでちよつとその Insel 版は詩が全部年代順に、いい詩も何もかも面白いほどごつちやに、そしてそれを書いた地別にのみ分けて、編纂されてあることを斷つて置くことを許されるといい。)―― Weimar だの、Jena だのの間に Karlsbad とか Marienbad とかいふ土地の名の挾まつてゐるのに目を止めた。これ等はゲエテが晩年に誕生日などを一人で靜かに過ごしに行つた場所である。ことに Marienbad は、ゲエテが最後の戀愛をした土地であることは誰でも知つてゐる。その相手の娘は、三人姉妹の一番姉娘で、ウルリィケといふのだつた。「ウルリイケは目の青い、髮の褐色な娘であつた。七十五歳のギヨオテが今年の誕生日には十九歳のウルリイケと踊つた。」(「ギヨオテ傳」)――まだ私はそれ等の場所を地圖で調べたことはないが、恐らくボヘミアとの國境近くにある温泉場であるのにちがひない。しかし、さういふ西洋の、ことにボヘミアあたりの温泉場などなら、私も好きになれさうである。日本でいへば、私の知つてゐる所では、まあ、さしづめ輕井澤のやうなところに近いやうな感じである。

 かういふ西洋の温泉場では、温泉といつても、その中に體を浸らせたりするのではなく、唯、温泉の湧きこぼれるのを杯などで飮むに過ぎないのだらう。どうも温泉に浸りながらでは「マリエンバアドのエレジイ」のやうな切々とした詩は書けさうもないと思へるからである。――私はふと小金井きみ子譯するところの、レルモントフの「浴泉記」の中に、何んだかへんな情景を讀んだことのあるのを思ひ出し、本棚の奧から古い本を引つぱり出して見ると、果してかういふ數行をすぐ發見した。――「……硫黄の泉のほとりに來り、廓のもとに立寄りて、涼き影に暫時いこはんと思ひしに、めづらしきことにいであひぬ。……侯爵夫人とをかしきモスコオ男とは今廓の中の椅子によりて、心籠めたる物語りの最中なり。若き姫はいま泉の水を飮終りきと覺しく、物思はしげに其ほとりを立もとほりたり。……」(圈點筆者)少くともかういふ情景に近いものを頭に浮かべながらでなくては、ゲエテの晩年の情緒などは到底想像せられない。

 日本の温泉地のやうなものを背景にしたら、それは全然これ等とは別…

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