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プルウストの文体について
プルウストのぶんたいについて |
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作品ID | 47963 |
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著者 | 堀 辰雄 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「堀辰雄作品集第五卷」 筑摩書房 1982(昭和57)年9月30日 |
初出 | 「日本現代文章講座 鑑賞篇」厚生閣、1934(昭和9)年5月19日 |
入力者 | tatsuki |
校正者 | 染川隆俊 |
公開 / 更新 | 2009-02-25 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 11 ページ(500字/頁で計算) |
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散文の本質といふものは、自分の考へをどんな風にでも構はずに表現してしまふところにある、と言つてもいいやうであります。スタンダァルにしろ、バルザックにしろ、さういふ意味での、本當の散文家でありました。それから、いまお話ししようとするプルウストも、さういふ散文家の最もすぐれた一人であります。
プルウストの文體は、一見しますと、いかにも書きつぱなしのやうで、混亂してゐて、冗漫に見えるのであります。しかし、それだからと言つて、その文體そのものを非難する訣には行きません。プルウストの場合には、その驚くべき冗漫さも已むを得ぬと我々に首肯せしめるだけの充分な理由があるからであります。「スワン家の方」の何處でもいいから開いて御覽なさい。例へば、ここにアスパラガスを描寫した數行があります。
私は、女中がいま莢を剥いだばかりの小豌豆が、テエブルの上に球ころがしの緑色の球のやうに澤山ならんでゐるのを見ようと思つて立ち止つた。しかし私がうつとりしたのはアスパラガスの前だつたのだ、――それはすつかり群青色と薔薇色とに濡れてゐて、その穗先は葵色と空色とにうつすら染まりながら、まだ畑の土のこびりついてゐるその先端に行くにしたがつて漸々に、天上の虹のやうに暈かされてしまつてゐた。さういふこの世ならぬ色合のせゐか、私にはそのアスパラガスが、何んだか或る微妙な生物が面白半分にそんな野菜に變身してゐるやうな氣がし、そしてその變裝(食べようと思へば食べられる、硬い肉の)ごしにまるであの曙の生れようとしてゐるやうな色合、あの虹の下描きのやうな色合、青味を帶びた夕暮れの消えんとしてゐるやうな色合となつて、その風變りなエッセンスが――それを晩飯に食べた晩は、夜中ずつと、シェクスピアの夢幻劇みたいな詩的でばかばかしい笑劇でも演ぜられてゐるかのやうに、私の尿瓶を香水瓶に變へてしまふところの、それほど風變りなエッセンスが、そのうちに認められるやうに私には思はれた。
皆さんに出來るだけお解り易いやうにと思つて大變意譯をしましたので、原文をひどく傷つけやしなかつたかと恐れてゐますが、――こんなお粗末な飜譯で見ましても、ともかくも、このセンテンスが非常に長いといふことだけはお解りになるでせう。一度讀んだきりでは、恐らく何が何やらお解りになりますまい。三度、四度と繰り返し讀んでゐるうちにやつとその意味が掴めるやうになる。そして初めて何んといふ豐富な形象がこの短い章句の中にぎつしりと詰め込まれてゐるかに驚きます。(こんな長たらしいセンテンスは殆ど毎頁に大きく寢そべつて居るのです。)――御覽のとほり、アスパラガスの描寫は唯二箇のセンテンスで了つてゐまして、それは豌豆のことを書いた比較的に短いセンテンスに先立たれてゐます。いきなりアスパラガスの描寫を始めずに、先づ田舍家の臺所に這入りこんだ少年の「私」が、テエブルの…