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雨夜詞
あめよことば |
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作品ID | 47992 |
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著者 | 田中 貢太郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「伝奇ノ匣6 田中貢太郎日本怪談事典」 学研M文庫、学習研究社 2003(平成15)年10月22日 |
入力者 | 川山隆 |
校正者 | 門田裕志 |
公開 / 更新 | 2009-09-10 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 10 ページ(500字/頁で計算) |
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給仕女のお菊さんは今にもぶらりとやつて来さうに思はれる客の来るのを待つてゐた。電燈の青白く燃えだしたばかりの店には、二人の学生が来てそれが入口の右側になつたテーブルに着いて、並んで背後の板壁に背を凭せるやうにしてビールを飲んでゐた。其所にはお菊さんの朋輩のお幸ちやんがゐて、赤い帯を花のやうに見せながら対手をしてゐた。
お菊さんは勝手の出入口の前のテーブルにつけた椅子に腰をかけてゐた。出入口には二筋の白い暖簾がさがつて、それが藍色の着物を着たお菊さんの背景になつてゐた。それは長く降り続いてゐた雨の空が午過ぎから俄に晴れて微熱の加はつて来た、何所からともなしに青葉の香のやうな匂のして来る晩であつた。お菊さんは青いカーテンの垂れさがつてゐる入口の方を見てゐた。見ると云ふよりは聞いてゐた。それはのそりのそりと歩く重だるいやうな足音であつた。
「……何を考へてるの、ゐらつしやいよ、」
お幸ちやんの顔が此方を向いたので、お菊さんは自分が北村さんを待つてゐてうつかりしてゐたことが判つて来た。
「行くわよ、」
「何をそんなに考へ込んでるの、昨夜のあの方のこと、」
それは近くの自動車屋の運転手のことで、お菊さんにはすぐそれと判つた。買つたのか貰つたのか、二三本葉巻を持つて来て、それにあべこべに火を点けながら、俺はこれが好きでね、と云つて喫んだので、二人は店がしまつた後で大笑に笑つたのであつた。
「さうよ、俺は葉巻が好きでね、」
お菊さんは男の声色を強ひながら、右の指を口の縁へ持つて行つて、煙草を喫むやうな真似をした。
「さうよ、さうよ、」
と云つてお幸ちやんが笑ひだした。
「なんだい、なんだい、へんなことを云つてるぢやないか、なんのことだい、」
お幸ちやんと並んでゐた学生の一人がコツプを口にやりながら云つた。
「面白いことよ、これよ、俺はこれが好きでね、何時もあべこべに喫むんだよ、」
お幸ちやんは笑ひながら右の指を二本、口の縁に持つて行つて煙草を喫む真似をした。
「なんだい、その真似は、何人がそんなことをするんだ、云つてごらんよ、何人だね、」
「運転手のハイカラさんよ、」
「運転手つて、自動車か、」
「さうよ、」
「それがどうしたんだ、」
「面白いのよ、昨夜……、」
お幸ちやんはそれから声を一段と小さくして話しだした。お菊さんはまた入口の方に眼をやつて北村さんのことを考へだした。お菊さんの眼の前には、肥つた色の青白い、丸顔の線の軟らかなふわりとした顔が浮かんでゐた。この月になつて雨が降りだした頃から来はじめた客は、魚のフライを注文して淋しさうにビールを飲んだ。
「此所は面白い家だね、これからやつて来るよ、」
と客が心持好ささうに云ふので、
「どうぞ、奥さんに好くお願ひして、ゐらつしやつてくださいまし、」
と笑ふと、
「私には、その奥さんが無いんだ、可愛さ…