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海異志
かいいし |
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作品ID | 47993 |
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著者 | 田中 貢太郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「伝奇ノ匣6 田中貢太郎日本怪談事典」 学研M文庫、学習研究社 2003(平成15)年10月22日 |
入力者 | 川山隆 |
校正者 | 門田裕志 |
公開 / 更新 | 2009-09-10 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 17 ページ(500字/頁で計算) |
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一
源吉は薄青い月の光を沿びて砂利の交つた砂路を歩いてゐた。左側は穂の出揃うた麦畑になつて右側は別荘の土手になつてゐた。土手には芝草が生えてその上に植ゑた薔薇の花が月の光にほの白く見えてゐた。源吉は人の足音がするのではないかと思つて又歩くことをやめて耳を澄ました。そして海岸の方へと低まつてゐる路の上を透かすやうにした。微な風波の音が南風気のある生温かい空気の中に滲んで聞えるばかりで他に何の物音もしなかつた。
源吉は又歩き出した。もうかなり更けてゐるので海岸へ出てゐる人はないと思つてゐるが、それでゐて村の人が来はしまいかと云ふ怖れが、彼をして何時までも耳を澄まさせてゐた。籠に入れられた小鳥のやうな境遇にゐる彼の女の住んでゐる別荘の傍を、夜遅く盗人かなんぞのやうに通るところを、村の人に見せることはこの上もない疚しいことであつた。
源吉はやゝ安心したので歩きながら延びあがるやうにして、土手越しに別荘の内を覗き込むやうにした。其処には黒い庭木の影があつてその先に霜の置いたやうに見える屋根瓦があつた。彼の足は自然と止まつた。そしてうつとりとして立つてゐたが、……この夜更けにとても庭に出てゐさうなことがないと思ひ出した彼はまた歩き出した。
……小さな土鍋で焼いたお粥を茶碗に盛つてそれに赤い梅干を三ツばかり添へて枕元へ持つて来た。と、枕元に点けてあつた豆ランプの光がちら/\と揺れた。
「お粥が出来がよくないよ、」
「なに、やはらかくなつてるなら好い、すまねえな、小母さんがまた何か云つたんぢやないか、」
「お母さんは、今晩、山田さんの婚礼へ、呼ばれて行つたから、ゐないよ、」
「あァさうか、山田の信次郎さんの婚礼か、信次郎さんは、俺より二ツ下だから、廿二だな[#「廿二だな」は底本では「甘二だな」]、」
「あなたも早く、好いお嫁さんをお貰ひよ、」
「俺か、俺よりか、お前の方はどうだ、お前が早くお嫁に行くなり、婿を取るなりしなくちやいかんぢやないか、」
「私なんか駄目よ、」
女は小さな声で呼吸をはづますやうにしたが急にきゝ耳を立てた。
「どうした、」
「誰か人が来たやうよ、」
「あれは、風だよ、」
「そうだらうか、」
女の息が暖かに顔にかゝるのを感じた。……その刹那の絵画が源吉の感覚に根ざして蘇生つて来た。
しかしそれはもう自分の所有ではなかつた。彼は非常に淋しい気持ちになつて歩いた。別荘の土手は右に折れてしまつてその先は桑畑になつてゐた。小さな路が土手と桑畑との間に通じてゐた。其所は別荘へ出入の魚屋酒屋など商人の往来する道でその先に別荘の裏門が見えてゐる。源吉の足はその小路の方へ二足ばかり折れ曲つたが急に立ち止まつた。そして彼は裏門の方をぢつと見てから耳を傾けた。人の足音がするかしないかを確かめるために。
南風気を含んで風波が磯際の砂に戯れる音ばかりで他には依…