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牡蠣船
かきぶね
作品ID47994
著者田中 貢太郎
文字遣い新字旧仮名
底本 「伝奇ノ匣6 田中貢太郎日本怪談事典」 学研M文庫、学習研究社
2003(平成15)年10月22日
入力者川山隆
校正者門田裕志
公開 / 更新2009-09-13 / 2014-09-21
長さの目安約 10 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 秀夫は凭れるともなしに新京橋の小さなとろとろする鉄の欄干に凭れて、周囲の電燈の灯の映つた水の上に眼をやつた。重どろんだ水は電燈の灯を大事に抱へて動かなかつた。それは秀夫に取つては淋しい眼に見える物が皆あされたやうに思はれる晩であつた。橋の上には沢山の人が往来をしてをり短い橋の左の橋詰の活動写真館からは騒々しい物音が聞ゑ、また右の橋詰の三階になつた牛肉屋からも客の声が騒がしく聞えてゐたが秀夫の心には何の交渉もなかつた。
 秀夫はその町の銀行に勤めてゐた。彼は周囲の友達のやうに華かな世界がなかつた。その晩も下宿で淋しい木屑を喫むやうな夕飯を済ますと机の上の雑誌を取つて覗いてゐたが、なんだかぢつとしてゐられないので活動でも見て帰りに蕎麦でも喫はうと思つて其所の活動写真館へやつて来た。写真は新派の車に乗つてゐる令嬢を悪漢が来て掠奪すると言ふやうな面白くもないものであつた。彼は物足りないのでふらふらと出て来たものの他に行く所もないので橋の欄干へ凭れるともなしに凭れたところであつた。
 秀夫はふと自分と机を並べてゐる友達が其処の活動写真で関係したと言ふ女のことを考へ出した。それは自分の下宿の筋向ふの雑貨店の二階から裁縫学校へ通ふてゐる小柄な色の白い女であつた。友達は活動を見てゐる女とどう言ふやうにして近付きになつたのであらうと考へながらその眼を左の方へとやつた。其処は活動写真の前の河縁でその町の名物の一つになつてゐる牡蠣船の明るい灯があつて、二つになつた艫の右側の室の障子が一枚開いて若い綺麗な女中の一人が此方の方へ横顔を見せて銚子を持つてゐたが、客は此方を背にして障子の蔭に体を置いてゐるので盃を持つた右の手先が見えてゐるのみで姿は見えなかつた。牡蠣船の先には又小さな使者屋橋と云ふ橋が薄らと見えてゐた。
 岸の柳がビロードのやうな若葉を吐いたばかりの枝を一つ牡蠣船の方に垂れてゐたが、その萠黄色の若葉に船の灯が映つて情趣を添へてゐた。秀夫はその柳の枝をちらと見た後に又眼を牡蠣船の方へとやつた。若い綺麗な女中が心持ち赤らんだ顔を此方へ向けてにつと笑つた。それは客と話をして笑つたものであらうが、自分の眼とその眼とがぴつたり合つたやうに思つて、秀夫は極まりがわるいのでちよと牛肉屋の二階の方に眼をやつた。と、彼は五六日前に友達の一人が牡蠣船に行つて、其処の女中から筑前琵琶を聞かされたと言つたことを思ひ出して、俺もこれから行つてみやうかと思つた。しかし彼は一人で料理屋へ行つたことがないので、眼に見えない幕があつてそれが胸先に垂れさがつてゐるやうで、おつくうですぐ行かうと言ふ気にはなれなかつた。
 秀夫はその牡蠣船では牡蠣料理以外に西洋料理も出来ると聞いてゐたので、西洋料理の一皿か二皿かを取つてビールを飲んでも好いと思つた。西洋料理を喫つてビールを飲むことなら友達と数回やつてゐるので…

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