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釘抜藤吉捕物覚書
くぎぬきとうきちとりものおぼえがき
作品ID48048
副題07 怪談抜地獄
07 かいだんぬけじごく
著者林 不忘
文字遣い新字新仮名
底本 「一人三人全集Ⅰ時代捕物釘抜藤吉捕物覚書」 河出書房新社
1970(昭和45)年1月15日
初出「探偵文藝」1925(大正14)年5月
入力者川山隆
校正者松永正敏
公開 / 更新2008-07-26 / 2014-09-21
長さの目安約 33 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

      一

 近江屋の隠居が自慢たらたらで腕を揮った腰の曲がった蝦の跳ねている海老床の障子に、春は四月の麗かな陽が旱魃つづきの塵埃を見せて、焙烙のように燃えさかっている午さがりのことだった。
 八つを告げる回向院の鐘の音が、桜花を映して悩ましく霞んだ蒼穹へ吸われるように消えてしまうと、落着きのわるい床几のうえで釘抜藤吉は大っぴらに一つ欠伸を洩らした。
「おっとっとっと――。」
 髪床の親方甚八は、あわてて藤吉の額から剃刀の刃を離した。
「親方、いけねえぜ、当ってる最中に動いちゃあ――。」
「うん。」
 あとはまた眠気を催す沈黙が、狭い床店の土間をのどかに込めて、本多隠岐守殿の黒板塀に沿うて軽子橋の方へ行く錠斎屋の金具の音が、薄れながらも手に取るように聞こえて来るばかり――。
 剃り道具を載せて前へ捧げた小板を大儀そうにちょっと持ち直したまま蒸すような陽の光を首筋へ受けて釘抜藤吉は夢現の境を辿っているらしかった。気の早い羽虫の影が先刻から障子を離れずに、日向へ出した金魚鉢からは、泡の毀れる音がかすかに聞こえてきそうに思われた。土間へ並べた青い物の気で店一体に室のようにゆらゆらと陽炎が立っていた。
「ねえ。親分。」
 藤吉の左の頬を湿しながら、甚八は退屈そうに言葉を続ける。「連中は今ごろ騒ぎですぜ。砂を食った鰈でも捕めえると、なんのこたあねえ、鯨でも生獲ったような気なんだから適わねえ、意地の汚ねえ野郎が揃ってるんだから、どうせ浜で焼いて食おうって寸法だろうが、それで帰ってから腹が痛えとぬかしゃあ世話あねえや。親分の前だが、お宅の勘さんとあっしんとこの馬鹿野郎と来た日にゃあ、悪食の横綱ですからね。ま、なんにせえ、このお天気が儲けものでさあ。町内の繰り出しとなるときまって降りやがるのが、今年あどうしたもんか、この日和だ。こりゃたしかにどっかのてるてる坊主がきいたんだとあっしゃあ白眼んでいますのさ。十軒店の御連中は四つ前の寅の日にわあってんで出かけやしたがね、お台場へ行き着くころにゃ、土砂降りになってたってまさあ――ねえ、親方、今日はいよいよ掃部さまが御大老になるってえ噂じゃありませんか。」
「うん。」
 半分眠りながら藤吉は口の中で相槌を打っていた。安政五年の四月の二十三日は、暦を束にして先に剥したような麗かな陽気だった。こう世の中が騒がしくなってきても、年中行事の遊ぶことだけは何をおいても欠かさないのが、そのころの江戸の人の心意気だった。で、海老床の若い者や藤吉部屋の勘弁勘次や、例の近江屋の隠居なぞが世話人株で、合点長屋を中心に大供子供を駆り集め遅蒔きながら、吉例により今日は品川へ潮干狩りにと洒落こんだのである。時候のかわり目に当てられたと言って、葬式彦兵衛は朝から夜着を被って、黄表紙を読みよみ生葱をかじっていた。気分が悪くなると葱をかじり出すのがこの男の癖…

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