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![]() みっつのそうわ |
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作品ID | 4808 |
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著者 | 堀 辰雄 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「幼年時代・晩夏」 新潮文庫、新潮社 1955(昭和30)年8月5日発行、1970(昭和45)年1月30日16刷改版 |
初出 | 三つの挿話は「暮畔の家」「昼顔」「秋」の三篇から成る。暮畔の家:「時事新報」(夕刊連載の「東京新風景」第10回目に「本所」の表題で。)1931(昭和6)年3月21日、22日、24日、25日、26日、27日、加筆訂正後、「墓畔の家」の表題で「作品」に。1932(昭和7)年4月号、昼顔:「若草」1934(昭和9)年2月号、秋:「文藝」(「挿話」の表題で。)1934(昭和9)年2月号 |
入力者 | kompass |
校正者 | 染川隆俊 |
公開 / 更新 | 2004-03-02 / 2014-09-18 |
長さの目安 | 約 33 ページ(500字/頁で計算) |
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墓畔の家
これは私が小学三四年のころの話である。
私の家からその小学校へ通う道筋にあたって、常泉寺(註一)という、かなり大きな、古い寺があった。非常に奥ゆきの深い寺で、その正門から奥の門まで約三四町ほどの間、石甃が長々と続いていた。そしてその石甃の両側には、それに沿うて、かなり広い空地が、往来から茨垣に仕切られながら、細長く横わっていた。その空地は子供たちの好い遊び場になっていた。そしてその空地で遊んでいる分には、誰にも叱られなかったが、若し私たちがその奥の門から更に寺の境内に侵入して、其処のいつも箒目の見えるほど綺麗に掃除されている松の木の周りや、鐘楼の中、墓地の間などを荒し廻っているところを寺の爺にでも見つかろうものなら、私たちはたちまち追い出されてしまうのだった。疳癖らしかった爺の一人なんぞは、手にしていた竹箒を私たちに投げつけることさえあった。だが、そうなると一層その寺の境内や墓地を荒すことが面白いことのように思われ、私たちは爺に見つかるのを恐れながら、それでも決してその中へ侵入することを止めなかった。その寺には爺が二人いた。一人は正門の横で線香や樒などを売っており、もう一人はよく竹箒を手にして境内や墓地の中を掃除していた。私たちは彼等を顔色から「赤鬼」「青鬼」と呼んでいた。
たしか秋の学期のはじまった最初の日だったと思う。学校の帰り途、五六人でその夏の思い出話などをしながら一しょに来ると、そのうちの一人が数日前に常泉寺の裏を抜ける、まだ誰も知らなかった抜け道をみつけたといって得意そうに話した。そこで私たちはすぐそのまま、一人の異議もなく、その抜け道を通ってみることにした。
そのころ常泉寺の裏手にあたって、小さな尼寺があった。円通庵とか云った。丁度その尼寺の筋向うに、ちょっと通り抜けられそうもない路地があったが、その中へ私たちの小案内者が、ずんずん得意そうに入って行くので、私たちもさも面白いことでもするようにその汚い路地の中へ入って行った。最初のうちは何んだかゴミゴミした汚らしい小家の台所の前などを右へ折れたり左へ折れたりしていたが、そのうち半ばこわれかかった一つの柴折戸のあるのを先頭のものがそっと押して中へはいって行った。と、いままで何か言いあっていたものたちが、そのとき急にばったりと話しやめた。不意に意外な場所に出たものと見える。やっと自分の番になって、その中へはいって見ると、私たちの目の前には、いまにも崩れそうな小さな溝を隔てて、目のあらい竹垣の向うに、まだ見たこともないような怪奇な庭が横わっていた。そこには無気味に感じられる恰好の巌石がそば立ち、緑青いろをした古い池があり、その池の端には松の木ばかりが何本も煙のように這いまわっていた。そしてそれが常泉寺の奥の院の庭であるのを知った時、私たちは一層驚かずにはいられなかった。……