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花を持てる女
はなをもてるおんな
作品ID4809
著者堀 辰雄
文字遣い新字新仮名
底本 「幼年時代・晩夏」 新潮文庫、新潮社
1955(昭和30)年8月5日発行、1970(昭和45)年1月30日16刷改版
初出「文學界」1942(昭和17)年8月号
入力者kompass
校正者染川隆俊
公開 / 更新2004-03-02 / 2014-09-18
長さの目安約 37 ページ(500字/頁で計算)

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本文より




 私はその日はじめて妻をつれて亡き母の墓まいりに往った。
 円通寺というその古い寺のある請地町は、向島の私たちのうちからそう離れてもいないし、それにそこいらの場末の町々は私の小さい時からいろいろと馴染のあるところなので、一度ぐらいはそういうところも妻に見せておこうと思って、寺まで曳舟通りを歩いていってみることにした。私たちのうちを出て、源森川に添ってしばらく往くと、やがて曳舟通りに出る。それからその掘割に添いながら、北に向うと、庚申塚橋とか、小梅橋とか、七本松橋とか、そういうなつかしい名まえをもった木の橋がいくつも私たちの目のまえに現れては消える。ここいらも震災後、まるっきり変ってしまったけれども、またいつのまにか以前のように、右岸には大きな工場が立ち並び、左岸には低い汚い小家がぎっしりと詰まって、相対しながら掘割を挾んでいるのだった。くさい、濁った水のいろも、昔のままといえば昔のままだった。
 地蔵橋という古い木の橋を私たちは渡って、向う側の狭い横町へはいって往った。すぐもうそこには左がわに飛木稲荷の枯れて葉を失った銀杏の古木が空にそびえ立っている。円通寺はその裏になっていて、墓地だけがその古い銀杏と道をへだてて右がわにある。黒いトタン塀の割れ目から大小さまざまな墓石を通行人の目に触れるがままに任せて。……
 もうすこしゆくと請地の踏切に出るのだが、ここいらはことのほか、いかにもごみごみした、汚い、場末じみた光景を残している。乾物屋と油屋の間に挾まれた、花屋というのも名ばかりのような店先で、花を少しばかり買い、それから寺に立ち寄って寺男に声をかけ、私たちだけで先きに墓地のほうへ往った。
 墓地は、道路よりも低くなっているので、気味わるく湿め湿めしていて、無縁らしい古い墓のまわりの水たまりになっているのさえ二三見られる位だった。
「ずいぶん汚い寺で驚いたか。」私は妻のほうへふり返って言った。
「元禄八年なんて書いてあるわ……」妻はそれにはすぐ返事をしずに、立ち止って自分のかたわらにある古い墓の一つに目をやっていた。それから何んとなく独言のようにいった。「ずいぶん古いお寺なのね。」
 私の母の墓は、その二百坪ほどある墓地の東北隅に東に面して立っている。私はその墓のまえにはじめて妻と二人して立った。その柵のなかには黄楊と櫁の木とが植えられて、それがともどもに花をつけていた。しかしそれは母の墓といっても、母ひとりのための墓ではない。父方の上条家の代々の墓なのである。上野の寺侍だったという祖父、やはり若いうち宮仕えをしていたという祖母、明治のころ江戸派の彫金師として一家を成していたという伯父などと、私の見たことさえもないような人たちの間になって、震災で五十一の年に亡くなった私の母は、そこに骨を埋めているのである。
 私と妻とは、その墓を前にして、寺男のくるの…

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