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恢復期
かいふくき
作品ID4811
著者堀 辰雄
文字遣い新字新仮名
底本 「燃ゆる頬・聖家族」 新潮文庫、新潮社
1947(昭和22)年11月30日発行、1970(昭和45)年3月30日26刷改版
初出「改造」1931(昭和6)年12月号
入力者kompass
校正者染川隆俊
公開 / 更新2004-02-07 / 2014-09-18
長さの目安約 33 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

     第一部

 彼はすやすやと眠っているように見えた。――それは夜ふけの寝台車のなかであった。……

 突然、そういう彼が片目だけを無気味に開けた。
 そうして自分の枕もとの懐中時計を取ろうとして、しきりにその手を動かしている。しかしその手は鉄のように重いのだ。まだその片目を除いた他の器官には数時間前に飲んだ眠り薬が作用しているらしいのである。そこで彼はあきらめたようにその片目を閉じてしまう。
 が、しばらくすると、彼の手がひとりでに動き出した。さっきの命令がやっといまそれに達したかのように。そうしてそれがひとりで枕もとの懐中時計を手捜りしている。その動作が今度は逆に、彼自身ほとんど忘れかけていたさっきの命令を彼に思い出させる。
「まだ三時半だな……」
 彼はそうつぶやくと、一つ咳をする。するとまた咳が出る。そうしてその咳はなかなか止みそうもなくなる。まだ一時間ばかり早いけれども仕方がない。もう起きてしまおうと彼は思った。――彼は上衣に手をとおすために身もだえするような恰好をする。やっとそれを着てしまうと、半年近くも寝間着でばかり生活していた彼には、どうもそれが身体にうまく合わない。ネクタイの結び方がなんだかとても難かしい。靴を穿こうとすると、他人のと間違えたのではないかと思う位だぶだぶだ。――そういう動作をしながら、彼はたえず咳をしている。そのうちにそれへ自分のでない咳がまじっているのに気がつく。どうも彼の真上の寝台の中でするらしい。おれの咳が伝染ったのかな。彼は何気なさそうに自分の足もとに揃えてある一組の婦人靴を目に入れる。
 彼はやっと立上る。そうしてオキシフルの壜を手にしたまま、スティムで蒸されている息苦しい廊下のなかを歩きだす。鞄につまずいたり、靴をふんづけそうになる。一つの寝台からはスコッチの靴下をした義足らしいのが出ていて彼の邪魔をする。そんなごった返しのなかを、彼はよろよろ歩きながら、まるで狂人かなんぞのように眼を大きく見ひらいている。……
 そのときふと彼は、そういう彼自身の痛ましい後姿を、さっきから片目だけ開けたまんま、じっと睨みつけている別の彼自身に気がついた。その彼はまだ寝台の中にあって、ごたごたに積まれた上衣やネクタイや靴のなかに埋まりながら、そしてたえず咳をしつづけているのであった。


 夜の明ける前、彼はS湖で下車した。
 其処からまた、彼の目的地であるところの療養所のある高原までは自動車に乗らなければならなかった。途中で彼は、その湖畔にある一つのみすぼらしいバラック小屋の前に車を止めさせた。そこには、もと彼の家で下男をしていたことのある一人の老人が住んでいた。その老人はもう七十位になっていた。そうしてもう十何年というもの、この湖畔の小屋にまったく一人きりで暮しているのだった。ときどき神経痛のために半身不随になるというこ…

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