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「あかい花 他四篇」あとがき
「あかいはな ほかしへん」あとがき
作品ID48126
著者神西 清
文字遣い新字新仮名
底本 「あかい花 他四篇」 岩波版ほるぷ図書館文庫、岩波書店
1975(昭和50)年9月1日
入力者蒋龍
校正者hitsuji
公開 / 更新2020-03-11 / 2020-02-21
長さの目安約 10 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 ガルシンを語る人はかならずその印象ぶかい目のことをいう。それはまつげのながい、ぱっちりした、茶色のよく澄んだ目で、幼少のころから善良さと温順さと、そして一種の哀愁の色をたたえていたといわれる。それは彼が四歳のときある将軍から、「洗礼者ヨハネを思い出させる」とたたえられた目であり、また晩年には画家レーピンの名作『イヴァン雷帝とその皇子』において、父帝の手に倒れた皇子のまさに息たえんとする痛ましい眼光の、モデルになった目でもあった。彼の芸術を語ることは、やがてこの目の閲歴を語ることにほかならない。それは前世紀末のあんたんたる一時代に生きたロシア・インテリゲンツィアの良心の営みを、そのままに照り返している目だったのである。
 フセヴォーロド・ミハイロヴィチ・ガルシン Vsevolod Mikhajlovich Garshin は、一八五五年二月、南露エカテリノスラーフ県なる母方の領地で生まれた。父方の家系は古くキプチャク汗国時代に発祥すると伝えられる小地主貴族である。胸甲騎兵の将校であった父親とともに南ロシアで過ごされた彼の幼年時代は、あたかもあの悽惨なクリミヤ戦役の直後に当たっており、したがって父の家に集まる軍人たちの血なまぐさい戦争譚に、彼の幼ない情感と献身愛とははげしくかきたてられずにはいなかった。加うるにすこぶる放任主義であったらしい父親の膝下における早期の濫読があった。自伝によると五歳から八歳までのあいだの読書は、ロシアの古典はもとより、ビーチャ=ストウ女史の諸作やユーゴーの『パリの聖母寺』、また当時獄中にあったチェルヌィシェーフスキイの急進的なユートピア小説『何をなすべきか』にまで及んでいたという。
 一八六三年彼はペテルブルグに移り、やがて同地の中学校に入学したが、卒業の直前十七歳のとき最初の狂疾の発作に襲われて、しばらく精神病院に収容されなければならなかった。この精神の疾患は母方の遺伝に根ざすものといわれているが、より直接の素因が彼の幼時からの過敏な感性と外界印象との、激しい摩擦にあることは疑いをいれない。
 やがてようやく中学をおえた彼は、医科大学志望を学制上の支障によって断念して、鉱業専門学校に入学した。このころの彼は、しきりに若い画家の一団と交じわって、彼らに励まされながら文芸上の試作にふけった。彼が有名な画家ヴェレシチャーギンの生々しい戦争画から、強烈な印象を受けたのもこの時代のことである。画家たちとの交遊の形見として、彼には生涯を通じて数篇の美術批評がある。
 一八七六年バルカンが大いに乱れた。彼は従軍を願い出たが、適齢未満のゆえをもって許されなかった。しかし翌年の四月いよいよトルコに対する宣戦が布告されると、彼は進級試験をなげうって一兵卒を志願し、直ちにブルガリヤの戦線へ向けての辛労多い行軍に加わることができた。従軍の動機はただただ、…

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