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佐渡が島を出て
さどがしまをでて |
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作品ID | 48181 |
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副題 | 01 |
著者 | 江南 文三 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「明星」 「明星」發行所 1926(大正15)年5月 |
初出 | 「明星 」「明星」發行所、1926(大正15)年5月 |
入力者 | 江南長 |
校正者 | 小林繁雄 |
公開 / 更新 | 2009-05-28 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 5 ページ(500字/頁で計算) |
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足掛四年、丸二年半の佐渡の生活は、私を純粹の島男にしてしまひました。
佐渡に來ておけさをどりをせぬやつは木佛金佛石ぼとけなり
小佐渡來よ大佐渡も來よ文三とおけさをどりを共にをどらむ
最後に親よりまして自分を慕つてくれる四十人あまりの青年と輪を作つて踊りました。
日本國どうなるとても佐渡が島おけさをどりて文三を待て
日本國どうなるとても文三はおけさをどりてまた歸り來む
おけさと言ふ民謠はもともと新潟縣の出雲崎邊から佐渡に傳つたものらしいのですが、今では佐渡、佐渡のうちでも相川が本家のやうになつて居ります。相川の古いおけさ、小木の古いおけさ、新潟の新潟おけさと言ふのを年寄から聽きましたが、今の出雲崎おけさ及び柏崎おけさとよく似たものです。しかし町の人が酒も飮まずに歌ひ、それも一年中到る處でうたふのは佐渡の島うちでも相川だけでせう。私はおけさの譜を取つて見ましたが、その中佐渡のものだけで、それも極く粗い譜の取り方で節が二百近く集まりました。これが佐渡中の藝者の集まる鑛山祭をたつた二度しか見ない私の取つた節ですが、今後毎年鑛山祭を境として變つて行く節ですから、まだまだどの位新らしい節が出來るか分かりません。
踊も昔から色色あつたらしいのですが、藝者踊や役者踊は宴會の席以外で藝者の顏を拜んだことのない野暮な私には覺えられませんので、大勢でする輪踊だけを覺えました。小佐渡が本家になつてゐる十六足踊、大佐渡が本家になつてゐるさし踊、このうち十六足の方は小木へ行かないと踊れない人が多いので、さし踊をよく踊りました。相川の人なら大抵の人は踊れるのですから愉快です。甚句の踊をやはらかにして手をぬいたもので、子供でも何でも踊れますから、野蠻人の私には一番氣に入りました。
總べての人が知つてゐる歌をうたひ、すべての人の知つてゐる踊を踊るのは實際心持のいい事です。
大佐渡も小佐渡もかつて文三のおけさをどりしことを忘るな
東京へ來ては駄目です。
都會人おけさを知らずあはれまるひとりをどりて何のかひかある
ああ都會しうとしうとめならびゐてわれにおけさを踊らざらしむ
古里かおけさをどりを知る人のあらざる里は旅にぞありける
手をうちてはやすものなしわれひとりいかで踊らむおけさをどりを
時によると、
おけさふとうたはまほしくなりにけり佐渡の新平三味彈くらむか
相川の南の峠一つ越したところに中山と言ふ村落があつて、そこに中山新平と言ふ三味線の大好な男がゐます。周囘五十三里の佐渡が島中に足跡到らぬ隈なく、到るところで飯を貰つてお祭を追つて歩いてゐます。三味線の音がすると軒下に立留まつて舌を脣の端から出してぢつと聽きとれてゐます。去年の相川祭のとき御輿を迎へる提灯を晝間早くから買つて手に持つてゐたのは私と此男と二人きりでした。途中で行き會つて大に共鳴した體で踊つてくれました。
先生と…