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開業医
かいぎょうい
作品ID48224
著者長塚 節
文字遣い旧字旧仮名
底本 「長塚節全集 第二巻」 春陽堂書店
1977(昭和52)年1月31日
初出「ホトトギス 第十二卷第四號」1909(明治42)年1月1日
入力者林幸雄
校正者伊藤時也
公開 / 更新2010-08-03 / 2014-09-21
長さの目安約 72 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 或田舍の町である。裏通の或一部を覗くと洗張屋が一軒庭へ布を張つてあつて其庭先からは青菜の畑があるといふので、そこらをうろつく[#挿絵]の群が青菜の畑へ出るとほう/\と[#挿絵]を追ふ百姓の叱り聲が聞かれる。春になると其の畑からさうしてそこらあたりに隱れて居た青菜が一時に黄色な頭を擡げてすつと爪立てをしてそれから白桃の花が垣根に咲いて、洗張屋は庭の短い青草に水を滾しながら引つ張つた布を刷毛でこすつて居る、とかういふ町の或横町である。其角に破れた酒藏が悲しげに立つて居る。此藏を建てた老人が太い木の杖を突いて乞食のやうな姿で歩いて居たのはまだ近い過去のことである。酒の仕込時といふと勿論冬の季節であるが、大竈の前へ筵を敷いてそこへごろりと成つた儘蒲團を一枚かぶつて夜を明すといふ位であつた。それが一旦眼を瞑つたら非道な金貸に其藏はそつくり奪はれてしまつた。其後金貸は自分が招いた或事件の爲めに苦役に服して長い間入牢して居るので酒藏へは手のつけるものも無い。草が蓬々と生える。瓦はこける。壁は崩壞する。大桶が幾つとなく壁の崩壞した所からあり/\と見える。丁度腐骨瘡といふ病に罹つたらこんな姿であらうかと思ふ程凄じい形である。横町の長い板塀は柱が朽ちてるのでふわ/\として時々其一部が倒れる。それを誰かゞ起しては繩で縛つて置くので繩の新しい結び目がそこにもこゝにも作られてある。此の板塀を前にした一構、それはさつきの洗張屋の庭先の青菜の畑から[#挿絵]を追ふ叱り聲も時々は微かに聞かれるあたりであるが、そこに近頃開業した醫者がある。表の格子戸から患者は出入する。夜になると患者の控室になつて居る表の座敷の釣りランプの下で箱火鉢に倚り掛りながら藥局生が中央から分けた髮を光らせてパックを披いて見て居る。其側に火鉢を少し離れて醫服を著けた儘の若い主人が新聞を大きくあけて見て居ることがある。凍てがひどい冬の或晩のことである。同年輩の三十恰好の男の客があつた。控室の次の六疊の間で二人は炬燵をかけて居る。主人の醫者はまだ冷たい櫓の下で新聞紙の小さく折つたので頻りに炭を煽いで居る。藁屑の交つた粉炭の燻りは蒲團の裾から少し煙を立てる。炬燵の火がばち/\と起り掛けた時に醫者は醫服をとつて客の後ろの折釘へ掛ける。客と相對して居る欄間にはガラス張りの額が二つ懸けてある。一つは主人の醫者が出征の際に撮つた中隊の寫眞で一つは千葉の醫學校の卒業證書である。炬燵の側のランプの光が一方の額のガラス板から客の目へきら/\と反射する。頭を横へやるとランプの光は又一方のガラス板から反射する。そつちを見こつちを見して居ると醫者は和服に著換へてぐる/\と無造作に兵兒帶を締めながら
「君何だい」
 と炬燵へはひる。衣物は唐棧の洗曝しでメリヤスのシヤツは目に立つ程垢づいて居る。シヤツは二枚も襲ねて居るので手首の所が思ひ切つ…

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