えあ草紙・青空図書館 - 作品カード
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草と虫とそして
くさとむしとそして |
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作品ID | 48238 |
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著者 | 種田 山頭火 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「山頭火随筆集」 講談社文芸文庫、講談社 2002(平成14)年7月10日 |
初出 | 「愚を守る 初版本」1941(昭和16)年8月 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | 仙酔ゑびす |
公開 / 更新 | 2008-07-10 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 4 ページ(500字/頁で計算) |
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いつからともなく、どこからともなく、秋が来た。ことしは秋も早足で来たらしい。
昼はつくつくぼうし、夜はがちゃがちゃがうるさいほど鳴き立てていたが、それらもいつか遠ざかって、このごろはこおろぎの世界である。こおろぎの歌に松虫が調子をあわせる。百舌鳥の声、五位鷺の声、或る日は万歳万歳のさけびが聞える。夜になると、どこかのラジオがきれぎれに響く。
柿の葉が秋の葉らしく色づいて落ちる。実も落ちる。その音があたりのしずかさをさらにしずかにする。
蚊が、蠅がとても鋭くなった。声も立てないで触れるとすぐ螫す藪蚊、蠅は殆んどいないけれども、街へ出かけるときっと二三匹ついてくる。たまたま誰か来てくれると、意識しないお土産として連れてくる。彼等は蠅たたきを知っている。打とうとする手を感じていちはやく逃げる。いのち短かい虫、死を前にして一生懸命なのだ。無理もないと思う。
季節のうつりかわりに敏感なのは、植物では草、動物では虫、人間では独り者、旅人、貧乏人である(この点も、私は草や虫みたいな存在だ!)。
蝗は群をなして飛びかい、田圃路は通れないほどの賑やかさである。これにひきかえて赤蛙はあくまで孤独だ。草から草へおどろくほど高く跳ぶ。
一匹とんで赤蛙
蟻が行儀正しく最後の御奉公にいそしんでいる姿は、ときどき机の上を歩きまわったり寝床を襲うたりして困るけれど、それは私に反省と勤労を教えてくれる。
憎むべきは油虫だ。庵裏空しうして食べる物がないからでもあろうが、何でもかでも舐めたがる。いつぞやも友達から借りた本の表紙を舐めつくして、私にお詫言葉の蘊蓄を傾けさせた。
蜚※[#「虫+慮」、118-4]ほど又なく野鄙なるものはあらじ。譬へば露計りも愛矜なく、しかも身もちむさむさしたる出女の、油垢に汚れ朽ばみしゆふべの寝まきながら、発出でたる心地ぞする。(風狂文章)
古人がすでに言いきっている。油虫よ、私ばかりではないぞ、怒るな憎むな。
げんのしょうこという草は腹薬として重宝がられるが、何というつつましい草であろう。梅の花を小さくしたような赤い花は愛らしさそのものである。或る俳友が訪ねて来て、その草を見つけて、子供のために摘み採ったが、その姿はほほえましいものであった。
げんのしようこのおのれひそかな花と咲く
萩がぼつぼつ咲き初めた。曼珠沙華も咲きだした。萩の花は塵と呼ばれているように、曼珠沙華のように、花としてはさまで美しくはないけれど、何となく捨てがたいところがある。私は萩を見るたびにいつも故人一翁君を思い出す。彼の名句――たまさかに人来て去ねば萩の花散る――は歳月を超えて私たちの胸を打つ。
今日はあまりの好晴にそそのかされて近在を散歩した。そして苅萱を頂戴した。
素朴な壺に抛げこまれた苅萱のみだれ、そこには日本的単純の深さが漂うている。何の奇もな…