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霊訓
れいくん |
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作品ID | 4826 |
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著者 | モーゼス ウィリアム・ステイントン Ⓦ |
翻訳者 | 浅野 和三郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「霊訓」 潮文社 1995(平成7)年4月20日 |
入力者 | 浅野和三郎・著作保存会 |
校正者 | 土屋隆 |
公開 / 更新 | 2008-06-14 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 89 ページ(500字/頁で計算) |
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目次
解説
第一章 幽明の交通[#「幽明の交通」は底本では「幽明交通」(本文は「幽明の交通」)]とその目途
第二章 健全な生活
第三章 幽明間の交渉
第四章 各種の霊媒能力
第五章 幽明交通と環境
第六章 夫婦関係
第七章 真の宗教
第八章 神霊主義
第九章 啓示の真意義
第十章 進歩的啓示
第十一章 審神の要訣
[#改ページ]
解説
近代の霊媒中、嶄然一頭地を抽いて居るのは、何と言ってもステーントン・モーゼスで、その手に成れる自動書記の産物『霊訓』は、たしかに後世に残るべき、斯界のクラシックである。日本の学会に、その真価が殆ど認められていないのは、甚だ遺憾である。が、原本はなかなか大部のものであるから、爰には単に要所丈を紹介するに止める。若しも読者にして、ゆっくり味読さるるならば、其の分量の少なきを憂えず、得るところ寧ろ甚だ多かるべきを信ずるものである。
近代の霊媒の中で、モーゼスの如き学者的経歴を有する者は、殆ど一人もない。彼は一八三九年に生れ、十六歳の時に、ベッドフォードの中学に学んだが、その非凡の学才と勤勉とは、早くも学校当局の間に認められ、幾度か名誉賞を与えられた。一八五八年牛津大学に移るに及びて、其英才はいよいよ鋒鋩を現したが、過度の勉強の為めにいたく心身を損ね、病臥数月の後、保養のために大陸を遍歴すること約一年に及んだ。その中六ヶ月はマウント・アソスの希臘僧院で暮らし、専ら静思休養につとめた。後その司配霊イムペレエタアの告ぐる所によれば、同僧院にモーゼスを連れて行ったのは、霊達の仕業で、後年霊媒としての素地を作らしむる為めであったとの事である。
二十三歳の時帰国して学位を受け、やがて牛津を離れたが、健康が尚お全くすぐれない為めに、医師の勧めに従って、田舎牧師たるべく決心し、アイル・オブ・マンのモーグフォルド教会に赴任した。在職中たまたま疱瘡が流行して、死者続出の有様であったが、モーゼスは敢然として病者の介抱救護に当り、一身にして、牧師と、医者と、埋葬夫とを兼ぬる有様であった。その勇気と忠実と親切とは、当然教区民の絶大の敬慕を贏ち得たが、健康が許さないので、一八六八年他の教区に転任した。彼は何所へ行っても、すぐれた人格者として愛慕されたのであるが、たまたま咽喉を病み、演説や説教を医師から厳禁されたので、止むなく永久に教職を擲つこととなった。彼のロンドン生活はそれから始まったのである。
彼がロンドン大学予備科の教授に就任したのは、一八七〇年の暮で、爰でも彼の人格と、学力とは、彼をして学生達の輿望の中心たらしめた。モーゼスが心霊上の諸問題に、興味を持つことになったのもその前後で、医師のスピーア博士と共に、頻りに死後の生命の有無、その他人生諸問題につきて討究を重ねた。彼の宗教心は飽くまで強いのであるが、しかし在来の神学…