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道〔扉の言葉〕
みち〔とびらのことば〕
作品ID48262
著者種田 山頭火
文字遣い新字新仮名
底本 「山頭火随筆集」 講談社文芸文庫、講談社
2002(平成14)年7月10日
初出「「三八九」第六集」1933(昭和8)年2月28日
入力者門田裕志
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2008-07-25 / 2014-09-21
長さの目安約 2 ページ(500字/頁で計算)

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本文より




 いつぞや、日向地方を行乞した時の出来事である。秋晴の午後、或る町はずれの酒屋で生一本の御馳走になった。下地は好きなり空腹でもあったので、ほろほろ気分になって宿のある方へ歩いていると、ぴこりと前に立ってお辞儀をした男があった、中年の、痩せて蒼白い、見るから神経質らしい顔の持主だった。
『あなたは禅宗の坊さんですか。……私の道はどこにありましょうか』
『道は前にあります、まっすぐにお行きなさい』
 私は或は路上問答を試みられたのかも知れないが、とにかく彼は私の即答に満足したらしく、彼の前にある道をまっすぐに行った。
 道は前にある、まっすぐに行こう。――これは私の信念である。この語句を裏書するだけの力量を私は具有していないけれど、この語句が暗示する意義は今でも間違っていないと信じている。
 句作の道――道としての句作についても同様の事がいえると思う。句材は随時随処にある、それをいかに把握するか、言葉をかえていえば、自然をどれだけ見得するか、そこに彼の人格が現われ彼の境涯が成り立つ、彼の句格が定まり彼の句品が出て来るのである。
 平常心是道、と趙州和尚は提唱した。総持古仏は、逢茶喫茶逢飯喫飯と喝破された。これは無論『山非山、水非水』を通しての『山是山、水是水』であるが、山は山でよろしい、水は水でよろしいのである。一茎草は一茎草であって、そしてそれは仏陀である。南無一茎草如来である。
 道は非凡を求むるところになくして、平凡を行ずることにある。漸々修学から一超直入が生れるのである。飛躍の母胎は沈潜である。
 所詮、句を磨くことは人を磨くことであり、人のかがやきは句のかがやきとなる。人を離れて道はなく、道を離れて人はない。
 道は前にある、まっすぐに行こう、まっすぐに行こう。
(「三八九」第六集 昭和八年二月二十八日発行)



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