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血煙天明陣
ちけむりてんめいじん |
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作品ID | 48276 |
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著者 | 国枝 史郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「血煙天明陣(下)」 国枝史郎伝奇文庫、講談社 1976(昭和51)年7月12日 「血煙天明陣(上)」 国枝史郎伝奇文庫、講談社 1976(昭和51)年7月12日 |
初出 | 「東京日日新聞」1933(昭和8)年11月7日~1934(昭和9)年4月20日 |
入力者 | 阿和泉拓 |
校正者 | 酒井裕二 |
公開 / 更新 | 2019-04-08 / 2019-03-29 |
長さの目安 | 約 393 ページ(500字/頁で計算) |
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駕籠を襲う者
一
天明五年十一月、三日の夜の深更であった。宵の間にかくれた月の後、空には星ばかりが繁くまばたき、冬の寒さをいや増しに思わせ、遠くで吠え立てる家護りの犬の、声さえ顫えて聞こえなされた。
大江戸の町々は寝静まり、掛け行燈には火影さえなく、夜を警しめる番太郎の、拍子木の音ばかりが寂寥の度を、で、さらに加えていた。
まして隅田の堤あたりは、動くものといえば風に吹かれる、葉の散りつくした桜の木々の、細い梢か枝ばかりで、
春雨や鼠の嘗める隅田川
その野鼠さえ蠢いてはいず、まして人影など見られなかった。
と、厩橋の方角から、その寂しい隅田堤の方へ、一挺の駕籠を取り巻いて、数人のものが歩いて来た。
二人の武士が駕籠の前に、二人の武士が駕籠の背後に、一人の武士が駕籠の脇、引き手の側に引き添って、しとしとと歩いて来るのであった。
枕橋の渡しの辺を、一町あまり歩いて来た時、それまで堤の耕地へ向いた斜面へ、身を伏せて隠れていたのでもあろう、黒の衣裳に黒の羽織、袴なしの着流し姿、黒頭巾で深く顔を包んだ、お誂え通りの一人の武士が、しかし身体に得もいわれない、品と威との備わった武士が、おもむろに現われ斜面を上り、懐手をしたまま無造作に、
「これ、待て待て、その駕籠待て」
声は濁りなくさえていて、そうして不断に部下に対して、命令することに慣れている人の、鷹揚さと威厳とを持っていた。
駕籠の一団は足を止めた。
「これ、その駕籠を置いて行け」
「黙れ!」
と駕籠脇の武士が怒鳴った。
「身知らずの痴者! 尋常の駕籠と思いおるか! ……邪魔立ていたすと切り捨てるぞ!」
鮮かに狼狽はしていながら、相手はたった一人であり、それに自分の位置や身分、そうして駕籠の行く先に、何か自信でもあるとみえ、恐れ気もなく叱咤するようにいった。
「よいよい」
と黒頭巾の武士がいった。
「存じておる、存じておる、存じておるからいったのじゃ、その駕籠を置いて立ち去るがよい」
「黙れ!」
と例の駕籠脇の武士は、相手の武士の何んともいわれない品位、それにだんだん圧せられながら、隙を見せまいと威猛高に怒鳴った。
「何を存じて、汝無礼! この駕籠は、そも、この駕籠は……」
「老中田沼主殿頭の、小梅の寮へやる駕籠であろう、贈り主は松本伊豆守のはずじゃ」
「…………」
駕籠脇の武士は黙ってしまった。
が突然、「やれ!」と叫んだ。
白刃!
抜かれた!
五本!
ダ、ダ、ダ、ダ!
五人の武士の抜いた刀が、地を蹴る烈しい足音とともに、黒頭巾の武士へ殺到した。
抜き合わせて切ったか?
いや逃げた。
踵を返すと黒頭巾の武士は、一散に竹屋の渡しの方へ逃げた。
それを追いかけて五人の武士が、迂濶にも半町ほど走った時、川に面した堤の斜面から、三人の人影が躍り出て、素早く駕籠を取り巻い…