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ハイネが何処かで
ハイネがどこかで |
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作品ID | 48308 |
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著者 | 堀 辰雄 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「堀辰雄作品集第五卷」 筑摩書房 1982(昭和57)年9月30日 |
初出 | 「文藝 第二巻第九号」1934(昭和9)年9月号 |
入力者 | tatsuki |
校正者 | 染川隆俊 |
公開 / 更新 | 2010-12-26 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 6 ページ(500字/頁で計算) |
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ハイネが何處かで、自分は獨逸人の頑固なのは大嫌ひだが、獨逸語は大好きだ、詩の言葉としては世界中で一番美しいだらうといふやうな意味の事を言つてゐたと記憶する。
この頃、僕も獨逸語がすつかり好きになつてしまつた。しかし僕の獨逸語ときたら、少年の頃、習つたきりなのでほとんど忘れてしまつてゐるが、それでも辭書を引きさへすれば、どうやら意味ぐらゐは通じる。そんな興味も手つだつてか、この頃獨逸語の本を讀む時ぐらゐ愉快なことはない。いま、リルケを讀んでゐる。そのうちヘルデルリン、ノヴァリス等も讀まうと思つてゐる。
リルケの「マルテ・ラウリッヅ・ブリッゲの手記」を最近讀み出してゐるが、いいものであると思ふ。獨逸語の勉強かたがた、モオリス・ベッツといふ人の佛蘭西語譯を傍に置いて、すこし譯して見てゐる。
そのベッツの譯が出た時、ジィドの「地の糧」と比較されてかなり問題にされたらしい。しかし、その比較されたのはどういふ點か。なるほど兩者とも、詩とも小説ともつかないものである。それにまたエドモン・ジャルウの言ふやうに、共に「遊離」の文學である點が似てゐないこともない。しかし、兩者の雰圍氣はいちじるしく異ふのである。(ジィドもこの「マルテの手記」には甚だ興味をもつてゐるらしく、一九一一年この原書が出版された當時、いちはやくその斷片を若干「N・R・F」誌上に譯載してゐるとはいへ……)――この書は、丁抹の落魄した若い貴族マルテ・ラウリッヅ・ブリッゲが巴里に漂着して、そこで貧困や病苦と戰ひながら、まつたく一人きりで暮らしてゐるドキュメントである。巴里に滯在してゐた當時のリルケ自身の經驗が骨子となつてゐることは疑へない。
「巴里くらゐ人が容易に孤獨で暮らしてゐられる町はない。通行人がたいへん面白い。私は屡々、町のなかで非常に奇妙な顏立をした人に出會ふと、すぐそれに心を惹かれ、いつまでもそれに就いてあれやこれや考へた。或る夕方、私は一組の戀人たちとすれちがつた。非常にみづみづしく、若くて、幸福さうだつたので、私の方ですつかり面喰つてしまつたほどだつた。私は幸福の風に文字どほりに煽られた。それから私は、その戀人たちのことを何遍となく思ひ出した。數週間といふもの、私は彼等の幸福を生きてゐた。」晩年、リルケがさういふ話をある人にして聞かせたさうであるが、まあ、さういつた插話でこの手記は滿たされてゐるのだ。中にはずゐぶん氣味の惡い話もある。クリストフ・デトレエヴ・ブリッゲの詩の一節などは、いかにも「オペラ」の詩人コクトオの好きさうなものである。
コクトオと云へば、獨逸を追はれた文士たちがアムステルダムから出してゐる「ザンムルング」といふ雜誌の最近號に、コクトオ自ら獨逸語で書いた詩が載つてゐるのを讀んだ。「三文オペラ」の作曲家クルト・ワイルに獻じてゐる。子供のときの獨逸語を覺えてゐるきりなので…